ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4822,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー4
なった頃、はじめてしの真価が発揮される」というのです。 
ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。本当に鈍い刀を
磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロンに柔らかくなるんですよ。
兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は
「鈍き刀」じゃダメなんですよ。それが良くわかったの。
 ーー
 白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい言葉の剣先が鋭い。
鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。 
言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 芸道や能力のことを言っているのだろうが。
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2611, サルトルについて、考えてみる  −2
 2008年05月28日(水)
改めて、読んでみるとナカナカ新鮮に思えてくるところが多い。読んだ当時から40年経て、経験を多くつんだこともある。
当時はピンと来なかったことも、今では深く納得する。経験は、やはり「自分」の財産なのである。
 ー以下の論が、非常に面白い。
 *「意識」のあり方は、どのようなものか?
サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付けて考える。人間が世界へと「「関わって」いる、
ということは、人間は世界では「ない」ということなのだ。たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、窓の外の木ではない。
サルトルは、人間が「世界に関わる」というあり方をしているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、
人間と世界の間には「すき間」「裂け目」がある、ということだ。人間が「世界と関わる」ということは、人間が
「世界との間に裂け目を作る出す」ことだと考える。サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。
ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の「モノ」なのではなく、「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、
いわば世界の中の裂け目、世界の中の無である。それは、意識が、関係する片方の「モノ」ではなく、「関係」そのものであり、
外部の世界への「矢印」そのものである。・・「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく「自分自身に対して」も
裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。 人間は、常に過去の自分から脱出して新しい自分になっていく存在である。
過去と現在を乗り越え、未来に向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
▼ 解)人間の意識が、世界と関わると、その世界との間に裂け目をつくりだす。それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、
 裂け目、世界の無である、という。過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
 色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、
「関係」そのものであった。それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち上げてきて、
 その通りである。世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目をもたらす、「意識としての人間」をサルトルは
「対自存在」と呼ぶ。異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、自分は、そこに居ない。自分は、後で振り返ったとき、
 見入っている自分を対自として見ている内なる我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、
 そこは一方の割れた「私」ではなく、裂け目そのものが私である。別に難しいことではないのである。 
 *サルトルの人間観
             (字数の関係でカット 09年05月28日)
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2007年05月28日(月)
2246, 愚痴      ゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!!
愚痴とは、「言ってもしかたがないことを言って嘆くこと」、仏教用語としては
「 三毒の一の癡にあたり、物事を正しく認識したり判断したりできないこと」をいう。

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05月28日(水)
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