ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4184, 閑話小題 ーつれづれに
「私がある」こと自体が不安の発生現場で、私の存在は「無」の中に沈みこんでいくのである。それが不安の時である。
不安は人間そのものの根源的な性格なのである。 彼は「人間は、日常性の中に存在の本来性を忘れている」という。
われに現存するのは「他人の死」のみである。「死、それはまだまだ自分の番ではない!」と思っているから、生きていけるのだろう。
私が死を度々とりあげるのは、その死を直視することで、生とは何か考えるためであり、現存している自分を見つめるためである。
夕陽をみて人は、その太陽を自分に投影する。 一日の死である。そして、朝陽をみる、今日の生誕を感じる。そ
して、その夕陽のように沈んでいく。しかし、夕陽のように沈んでいく死だけでないのが、人生の妙味であるから面白いのである。
(。^0^。)ノホンジャ、マタ! あの世で! いや明日!
そういえば、明日とあの世は似ている。あると言えば在るし、無いと言えばないし!
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2005年09月09日(金)
1620, 「仮想と虚妄の時代」
月刊誌の文藝春秋5月号の石原慎太郎の「仮想と虚妄の時代」ー援助交際と純愛ー が、現在の日本の現状と病巣を書きあらわしていた。
若者、いや現代人の携帯電話やインターネットの仮想と虚妄の実体と病理をえぐっていた。ITは確かに便利で効率は良くなったが、
人間の情緒などの一番大事な部分を失ってしまったと看破。ITは情報を提供してくれるが、人間本来の情念やエネルギーまでも伝えない。
そのため、リアリティと虚構の差が解らなくなってしまう。私の知人に、何かあると友人に携帯電話で相談する男がいる。
それも、いい歳をした大人?である。自分の頭の中で、「あれやこれやを考えること」ができない。思索を何度か繰り返した上で
相談するなら解るが、それを一切しない。いや出来ないのだ。本人を観察すると、彼は本を読んでいない。読書は著者との無言の対話である。
それを普段の生活の中でしてないから、内面の対話が出来ない。だから、何かあるとすぐ携帯電話で相談するしかない。
事態を多角的に見ることや深く掘り下げることなど、彼の世界には存在していない。
携帯は会話しか成り立たない。内面の対話をした上で、それを相手に投げかけをしあうのが対話である。
ー石原はここで以下のように述べていているー
ー最近、問題になっているエンコーなどの新しい風俗の正当化(?)のために作られる言葉の醸し出すヴァーチャルなイメージは、
ことの本質を外れた価値判断を容易に導き出す。内質の空疎化とは想像力の枯渇であり、無個性化による自己喪失画一化であり、
人間としての尊厳の喪失の繋がり社会そのものの活力を失わしてしまうーと警告している。
現在、中高等学校の生徒の間で人気のある生徒の評価の指標が勉強やスポーツの能力ではなく、ただ携帯電話が鳴る頻度と、
いかに多くの連絡相手が登録されているかにかかっている現象は、人間関係における本質の変化を暗示している。こうした浅はかな
人間関係が何ももたらさないことを、彼等は解っていない。そんな交流の中では本気にお互いを預けあい頼り合うことができるだろうか。
ーー
そういう私も一日数時間もパソコンに向かい、家ではTVを3時間は見ている。情報の多くは、ITから得ている。
それから入ってくる情報は、実際のところ生の人間からも質も量も格段に上である。
だから困ったものである。この随想日記で書いている内容は、私の脳の多くの部分を占めている。
実際に会って話すより、より自分の言いたいことが顕わに書いてある。 といって、それが私の全てではないし、
誤魔化しも、虚構もある。やはり、情けの報せとして直接会わなければ伝わらないことがある。
−−
また、この中で触れられているホーキング博士の発言の部分が面白い。
石原慎太郎がホーキング博士の講演に行った時「地球ほどの文明を持った惑星は、どのくらいあるだろうか」という質問に
「二百万ほど」という答えがあった。それに対して、「それほどの数があるのに、どうして他の惑星の生命体を目にすることが
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09月09日(日)
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