ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3891, 腰痛は、脳内システムの不全が原因
事実を端的に示している。 観念でない現実の死。とは、どういうことなのか。
多くの人が、人間は死に向かう存在なのだと長く教えられてきた我われが、そのまま長く思い込んできた、
未だ気づかない間違いが、ここにある。考えてみれば、観念でない現実の死を考えるとする正にそのことによって、
死は常に観念となるという事実。観念でない現実の死など、観念としてしか存在しない。
しかし人は死ぬではないか、と人はいう。確かに現実に人は死ぬ。死ぬのは常に他人であるという事実について考えてみる。
他人の死は自分の死ではない、そこにも自分の死は、存在してない。人は、他人が死ぬのを見て、死を観念として対象化し、
それを自分に類推して、自分の死が現実に存在すると、思い込んでいるに過ぎない。ここでもあくまで観念でしかない。
笑うべきことだが、自分の死を考えようとして与えられている思考の真空、自分がいないとということを、考えている当の自分に、
どうして考えることができるのだろうか!かくして、哲学が誕生することになる。精神は思考することによって、
生物体としての死の恐怖、その錯覚を看破し得る、だから、考えることこそが、善く生きるということなのだ。
おそらく生物に存在するのは生存本能であって、死の恐怖ではない。生きようとするために死を避けるのであって、
死を避けるために生きているわけではない。人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、自ら課した観念による
錯覚のためで、人間は動物のように、十全には生きてはいない。それ自体で転倒している死への恐怖を逆手に取り、
再び大きく転倒させるものが宗教である。あるいは、宗教は考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯のそこに、
「死後」の絵を画く。あたかもそれが、生の続きのように。しかし「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、文字通り観念としかあり得ないのは自明なことだ。
死が観念なら死後も観念である。ふと気づけば当たり前のことである。 人が死と対になった「死後」という観念から
離れられないのは、真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に流れるものという時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象。
人は、物理的肉体として生まれ、育ち、次第に老いて、次に死ぬ。時間は、そのような物理的現在、物理的瞬間の重なりとして
表象されているのである。しかし、この時間表象によっては、決して表象されないときがある。
それが、それらを表象している正にこの現在、時間は一直線に前方に流れるものだと表象しているこの瞬間である。
(字数制限のためカット 2010年11月20日)
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2005年11月20日(日)
1692, 二つのトッテ
「ものごとにはすべて、二つのトッテがある」という諺がよい。 (人`∀´)ィヒッ♪
何ごとも両面がある(今さらだが、例えとして判りやすい)+面の取っ手を掴む癖をつけるかどうかで
人生変わってくる。 私のみるところ、意識をしてプラスを掴むようにしている人は1割も満たない。
平気でマイナスの取っ手を掴んでいる人をみると、その異様さに唖然とする。 家内にいわせると、
おばさん系の地味な服装の人に多いという。話題に暗い話をするのが恒例になっていて、マイナスの話に
快感を覚えているという。 ン・・ ヘロヘロ α〜(´`d)ぱぁぁ ー 字数の関係でカット(2007年11月19日)
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2004年11月20日(土)
1327, まさか、地元で大地震が!ー14
今回の損害は、おおよそ3兆円と発表された。
・インフラー高速道路、山間部の斜面などで、一兆二千億 ・民間家屋、7000億
・商工関係、3000億 ・他 8000億 という。
阪神大震災が兵庫県だけで9兆9000億というから、その三分の一の損害規模になる。
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11月20日(日)
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