ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3881, 閑話小題 ースロータイムの勧め
今が日常のすべてと思い込んでいる人が、こういう目を持つことができれば、あれこれ悩んだり喧嘩したり
することから開放されるのです。死体が残って、死が何処にもなければ、人は当然、魂という発想を持つわけですが、
これを上手く語る言葉がない。 また魂を語るといって、これは死後を語るということではないのです。
死後とは、これこれであると言ってしまえば、それは宗教になってしまいます。 死後は誰もわかっていないのです。
ですから、古代の人の死生観が如何に自然であったか気づくわけです。
どうやら人が自分を自分と思っている自分は、それほど明確なものではないらしい。
自分と宇宙、自分と他人というものをうまく分けられない。 万物は流転しているようだとだんだん気づいてきます。
そうすると再び、 今ここに居て何かをしている自分は何か、という問いに戻ってきます。
我われがこの地球に存在したことの意味と目的というのは、考えることによって、その不思議さを自覚することによって、
自由になることにあると思います。 我われは考えないことによって、要らないことにいっぱいこだわって、
不自由になっているいるわけですから、考えることによって、それから一つ一つ自由になっていく。
また本来すべての我われが自由であったということに、考えることによって人は必ず気づくはずです。
謎を自覚することは、自由である他になりません。 だからこそ人は、じっくり考える必要がある。考えて自覚すること、
自分が自分であることの謎を 自覚することこそ、この時代の人生を生きることの意味は尽きていると考えます。
ーー
以上が「考がるとはどういうことか」の主旨である。「人間の最上の快楽は考えることである」というのは少しは納得できた。
秘境旅行に行って、サッパリして帰ってくるのと酷似しているから尚のことだ。最果ての地で直感した開放感と自由感は、
その離れたところからの大きい視点を得ることによって、確実な心の基点を裏づけとして、何時までも残る。
それが、哲学することー考えることと酷似ているということである。哲学も、秘境旅行も、その蓄積により自分の中の自由を
大きく切り開いてくれる。我われは、よく考え、よく生きることによって、よき自分の物語を持つことができる。
自分の中に自分の物語と、歴史の物語を重ねることによって、互いのプリズムを照らし合わせて
輝かしい人生にすることが、哲学をすることに求められるのではなかろうか。
・・・・・・・・・
2005年11月10日(木)
1682, 「ひとを嫌うということ」−1
−読書日記
学生時代や、勤めていた時代に多くのタイプの人と接する機会があった。また、多人数の兄姉の末っ子ということもあり、
かなりきつい虐めにあった。学生時代の寮やクラブの先輩や、勤めているときに合わない先輩との確執も多々あった。
人間であるかぎり必然である。仏教でも四苦八苦の中で、怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)を説いている。
ここで取りあげるのは、こういう「程度の高い?」憎しみではなく、普段どこでもあるような嫌いについてであるが。
ひとを好きになることについては多くの本があるが、その反対の「嫌う」という問題を、真正面に捉えている
非常に面白い本である。ひとを好きになれ、しかし嫌いになるなというのは、食べてもいいが決して排泄するな
といっていると同じで、無理である。著者の中島義道は、とことん他人から嫌われてきて、そしてやたら嫌ってきたが、
ある日を境に、人生の大問題になってしまった。何となく嫌われていた妻子から、ウィーンで大喧嘩をして・・・
そして徹底して嫌われるようになった。 冒頭の「はじめに」から、すざましい内容になっている。
ー「思えば、母は父を嫌って死の直前の40年間、彼に罵倒に近い言葉を浴びせつづけていた。
その同じほとんど言葉を、今や妻の口から出てくる。 そして、私もまた父を死ぬまで嫌っていた。
いや、死んでからもなお嫌っている。 息子が、また私をはっきり嫌っている。 これは一体何なのだ!
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11月10日(木)
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