ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3702, 自己を見つめる −21
・三浦 社会主義の基盤は平等です。さっき、人間は共産主義者が好きなのではないという話がでましたが、
それは実は平等が好きだということなんです。実際、遠見に見ると、人間なんてどれもこれも同じなんです。
たとえば学校を見ると、卒業式とかなんかで、クラスの記念写真を撮りますね。これが制服など着たりしているとなおさら、
みんなと同じである。だが、少し近づいてみると、男の子がいたり、女の子がいたりする。 偏差値も違うし、
歌の上手い子もいる。ハンサムな子、美人な子、逆にブスな子もいる。これだけの要素を順列組み合わせしてみても、
千差万別といってよいほど違う。まして人間の要素というのはこれだけではない。 本当に一人ひとり違う。
だから、社会を構成上で大切なのは、平等の適用範囲なのでしょうね。平等の心地よさは大事です。
それは社会を安定させる重要な要素です。人間を遠距離で見るか、中距離で見るか、近距離で見るか。
市民的平等、遺伝子的平等、文化的平等などさまざまな局面を考えてみると、やはり平等は社会保障や法律の局面に
限るべきだと思います。その部分の平等が保障されていれば、その社会はまずはよしとしなくてはなりません。
ところが平等とはなんでも同じでなければならないととらえられている。
・鷲田 まず人間は基本的に不平等であると心得なくてはなりません。その基本的に不平等である人間が社会的生活を
営む上で、なるべく円滑にいくように考えだされてのが平等という概念であることを知らなくてはなりません。
そのためには、法律に定められた平等以外に不平等であるのが人間の姿なのです。それを心得させるものは
哲学であるということなのです。「平等と権利の主張」
・三浦 平等は社会生活を営む上で便宜的な概念であって、人間の本質でないということことですね。
だが、その平等の概念がしばしば混乱するのは、ほかでもない、
権利意識と平等が混同されるからではないでしょうか。
・鷲田 権利を主張するのに平等を楯にする。しかしね、平等を楯にした権利の主張は利己主義に過ぎないよ。
その証拠に、こちらに何かを寄越せ!という権利の主張なら大いに平等を口にしますが、
平等にするためにこちらの何かを削らなくてはならないような場面では、平等のビョの字も出なくなる。
・鷲田 いまの政治家や役人の二代目なんてのは世襲化しているが、これを如何考えるか。
・三浦 何代目であろうが、一応外交官試験を通ったり、選挙に当選しているのだから、やはり平等と見なくてはなりません。
・鷲田 平等は聞こえがよいし、居心地がいいかもしれない。また、社会生活を円滑に回転させるための円滑油としての効果もある。
だが、それはあくまでも法律的な枠組みに限られたことだとわきまえなくてはならない。
良識などという言葉は私にはもっとも似合わないが、やはりそういう良識を持ち合わせてないと、
品位のない社会になってしまいますね。その良識を確立するためにも哲学を持たなくてはなりません。
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以上、書き写すのに時間がかかったが、私にとって、それをするだけの価値は充分あった。 まずは、「平等が基本」という
前提が突き崩された。しかしよく考えてみれば、子供の時から社会を見ていても「不平等が基本」にあった。
裕福な家庭の友達と、貧困の家庭の友達は厳然とあった。 学歴の差も、美人とブスの差もあった。
成績の良い子もいれば、劣等性もいた。 弱い子は虐めの対象になっていた。色いろな人がいるのが社会である。
そして、弱肉強食が実態である。 平等は何処にも存在をしてないのが実社会である。しかし、心のどこかに平等意識が
働いているから、歪みが出てしまうのだ。同じ兄弟なのに! 同級生なのに! 市民なのに! 国民なのに! 等々。
しかし、そこに落とし穴がある。
「人間の基本は不平等」と割り切っていれば、「人生の敗北者」の考え方にならないですむ。「敗北者」の甘さに、
心のどこかに平等意識があるからだ。「世間様」に棲む「子狐的人間」が、この不平等と平等意識の狭間の中で右往左往する。
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05月15日(日)
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