ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2
ツバメと雀が入り乱れて飛んでいる。数羽の雀がツバメを追いまわしているのだ。もちろんその速さが違う、
またそれが可笑しいのだ。巣のほうを見るとツバメが巣の中の雀と戦っている最中。
しばらくすると中の雀がそのツバメをおいかける。そのくり返しのようだ。
近くに10羽くらいの雀がきて時たまその争いに加わる。しばらく見ていたらツバメが
いなくなった。雀が勝ったのだ。毎年雀のツガイが、その並んである巣の隅に住んでいたのは
解っていた。よくこんな近くで住めるものだと感心していたが、今年は雀が反撃に出たのだ。
その2~3日後一度やはり同じような事があったが、今年はそれっきりツバメの姿を見る
ことはなかった。その後1ヶ月位2羽がトンネル両側で見張りをしていた。
10年来もちろん初めてのことである。誰かにそのことを話したら英語でドッグファイトというらしい。
異種間の群れ同士の争いは何処でもある話でそう言うらしい。 以前NHKスペシャルで、
「ライオンの群れとリカオンの群れの死闘」のドキュメントを見たが、今でも鮮明に記憶でのっこっている。
最後はリカオンのボスが若い雄ライオンに殺されてライオンの群れが勝ったが。
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2004年05月17日(月)
1140, 自由について-1
学生時代より『自由とは何』を考えてきた。そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし、よく考えてみたら、自由は自分のやりたいことをみつけ、それを追及することであった。
自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。 字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている状態を理想としてきた。
調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。手の自由といっても、しょせんは人間の体の一部としての
腕の範囲内の自由でしかない。しかし使い方は自由である。自由には当然、自由なだけの自己責任がともなってくる。
アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類した。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことができるという意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」ととらえられる。
例えばカントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそを自由の本質と看做している。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件としてとらえられることになる。
このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。
キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で「人間は自由なものとして生まれた」と述べたが、
「全ての人間が社会において等しく自由である」という事は絶対に不可能である。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に対する闘争」に陥る。と指摘した。
キリスト教世界において、人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
「Liberty」と 「Freedom」である。
「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、戦わなくてはならない。
一方、「Freedom」は束縛から解放された結果もたらされた自由であり、「自由な状態」を指します。
そして自由な状態が脅かされる時には、やはり戦わなくてはならない。
哲学者のホッパーは自由を 文化的粉飾から自由になることが大事だとしている。
日本的にいえば、世間の常識に縛られないということだ。日本は自由という言葉は明治初期まで無かったという。
欧州から入ってきた「Liberty」と「Freedom」を西周が「自由」と訳した。
それまでの封建社会では自由の意味もまったく無かったのだ。鈴木大拙は自由に相当する言葉を自然(じねん)と看破。
自らを然らしむ、自由自在に自分を伸ばす、自分で自分の納得する境地を拓く、という内容である。
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05月17日(月)
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