ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3075, 父は疲れてしまったのです!
ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。

・・・・・・・
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる−1

「楽しく生きる」を、私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。
私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。
(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)
楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき     ・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき           ・自分の望んでいたことが実現しているとき
・人に褒めてもらえたとき         ・自分の生き方に自信を持ってるとき等々、上げられる。
いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、人生を浪費していることになる。
特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。 文筆家(哲学者)池田晶子 の
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。 平均寿命は80とは言われますが、歳をとってからできることは
当然若い頃より制限されますし、ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。
しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、この当たり前を
当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違ったものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。
 (以下字数の関係でカット2008年9月05日) 
             ーつづく
−−−− 
2004年09月05日(日)
1251, オーストリア旅行記 −2
  ーウィーンー

オーストリアといえば、ウィーンである。ウィーナーワルツ、ウィーンナーコーヒー等の軽やかなイメージがわいてくる。
飛行場から街に入るまでの道路で、何か変った感じがした。広告看板が一切無いのだ。街に入っても、広告看板が小さく
殆ど目立たない。郊外は一切広告看板が禁止されており、街中でもかなりの規制があるという。
ウィーンはハプスブルク王朝の帝都として発展してきた。17世紀以来、中欧都市として多くの文化の集積地として
東西南北・欧州の核ー交差点となっていた。音楽やワルツ、食に建築、多大な富、優れた人材が流入し混在していった。
そこにはゲルマン、スラブ、ラテン、ユダヤのどれでもない独特の国際性豊かな文化があった。
その結果として、国民の民度は最高度のようだ。一見華やかに見えるが、生活は質素で堅実な国民性である。
さほど大きくないないこの街に、一ヶ月間いても飽きることがないほど多くの見所が詰まっている。
たった数日の滞在でそれを感じさせる何かがある。学生時代、私の寮の隣室の河路という先輩と、
一年後輩の南波嬢がこのウィーンに留学したのだ。彼らは三十数年前に、この街に数年住んでいたのだ。
この街にいるだけで、いやこの国にいるだけで、多くのことが学べそうな雰囲気が満ちていた。
ウィーンでは、まずは「王宮」である。ハプスブルク家が640年間、帝都として代々の皇帝が住居としてきた。

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09月05日(土)
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