ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
 でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
「夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。
「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。
という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた魂の深い世界を
垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。

人間の脳には、信じられない能力が隠されている。死の瀬戸際を漂うと、
その一部を垣間見ることができるのだろう。死ぬ時の楽しみでもある。

ー面白いことに、去年の今日老子と荘子のことが書いてあった。
意味ある偶然の一致である。

・・・・・・・
2004年09月17日(金)
1263, 老子と孔子

本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。
以下を書き写してみるが、儒教と道教を対比させることによって、
それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。
             (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、
対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。

老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく
戦国時代の乱世であった。誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を
求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される儒教と道教が生まれたのである。
対立というより、対照というべきかもしれない。
いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。
我われは、ここに二通りの生き方を見、学べばよいのだ。

考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。
生きつづけてきたのは、男と女である」。人間とは、女と男の総合した抽象概念である。
だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。
すなわち、男性原理による哲学と、女性原理につらぬかれた思想である。
中国は孔子、老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきた
といってもよい。私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵なのだろうか。

中国の作家、林語同は、こう書いている。
ー功なれば儒教ー孔子ーの徒になり、失意の時は道教ー老子の徒に奉じるようになる。
 道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。

得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー
それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。

ーーーー
以上であるが、
道教と儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。

学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、孔子の教えは堅苦しく思い、
むしろ老荘の思想に共鳴をした。

老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。
人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、いやチリのような存在だ。
それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが一番の
近道ということが解ってくる。

人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように、
押し寄せては返していくものだ。
その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。

ー老子の思想の幾つかを書いてみるとー
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。
 水は、万物に恵みを与え、相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。
 だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。

・・・・・・・・
2003年09月17日(水)
896, 言いわけ読本 ー読書日記
               塩田丸男 中央図書館ー2003・09・14日
ー感想
言いわけの評判は古今東西かんばしくない。
といって言いわけが無くなればよいのかというと、そうではないだろう。
言いわけも考えてみれば、原因追求の不可欠な要素とも言える。

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09月17日(月)
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