ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[397650hit]

■1841, 理解する技術ー情報の本質がわかる−2
「食欲や性欲がなくなった。オウムでは空中浮遊等も日常的だ。」と言う。
まったく愕然としました。

私の講義の中では「血液を5分間止めると人間の脳は回復不能である」と教えています。
彼らの頭の中はどうなっているのだろうか。
現在起っている世の中の事と超常現象が頭の中で同時並行に走っていて、現実の世界と
そうでない世界の区別が無いのです。

私はこのように頭の中が何重にもなっていいる学生に、私が本音で教えると学生にどのような
影響を与えるのかとても理解できないし、また試験で口頭試問をしても本人が「本当は」
どう思ってるのかとうてい信用できないと思いました。

自分にはこのような学生を教えることはできないと思い、東大を辞めてしまいました。
今は、北里大学で教えていますが、医学部ではなく一般教養なので、学生にどう聞いて
もらっても良いし、学生にとって私はテレビの画面であって、学生が自分のことをやりながら
チラチラとこちら(テレビ)を見て、参考になれば聞き、つまらなければ友達と話をし、
丸々損にはならないというぐらいに思っています。そう思ってやっているとこちらも気が楽で、
「俺はテレビだからな。」と学生に断って教えております。それが今の学生であります。

最近になってオウムの世代の若者のことが少しずつわかってきました。その世代の若者は、
「知識は全て自分の外に蓄えるものである」という風になったのであります。
知というものはコンピュータや本や先生の頭の中に入っているものだ、マニュアルを見れば
なんでも出来ると思っている。CD―ROMというものがありますが、コンピューターの中に
蓄えられた知識を必要な時にとってくればいい。知は自分の都合で自分の外から取ってくるもの、
すべての知がそうなってしまったのです。

子育てもそうなってしまったのではないでしょうか。
けれども子育ては「ああしても、こうならない」
ことだらけで、甘いものを食べさせなければできない「虫歯」でさえ、外でこっそり
甘いものを買って食べてしまえばダメです。今の世の中は「ああすれば、こうなる。」
で動いていますが、そういう風にやってもそのつもりがないのに不景気になるし、子どもも
こう育てたいと思っても、思い通りにはいかないのです。

私が東大出版会の理事長をしていた頃、「知の技法」という本が東大出版会始まって以来と
いうぐらい売れました。その時はなぜ売れているのか分かりませんでしたが、今は分かります
「知は技法になってしまった」のです。技法というのは、ノウハウということです。

知のノウハウということ、つまりマニュアルであります。
こうしたい時はどうしたらいいのかがマニュアルを見れば、理も非も無くわかるのです。

私が育ってきたときの「知」というのは、そうではなかった。
私たちの世代にとって「知識」とは、論語に「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
と書いてあることに表されるように、自分が変わるということは、それまでの自分が死ぬと
いうことなのです。

そのことの繰り返しなのです。
「知る」ということはそれくらいガラッと自分が変わることなのです。
もっと具体的な説明をすれば、「癌の告知」というものがそれに近い面を持っています。

自分が癌であるかどうかを知るということは、それまでの自分が変わってしまうということを
意味する。

今から50年位前の戦時中は二十歳前後の人でも死を覚悟していました。
いまでは、年寄りでも未来の事は考えているのに自分の死のことは考えていないと思います。
仏教で言う生老病死が家庭から消えてしまっています。

現代においては9割の人が病院で生まれ、病院で死を迎えます。
人間の抱えている自然が隠れてしまい、非常に多くの人が自分が死ぬとは思っていないのです。

日本では勉強することはマニュアルを頭に入れることだと思っています。
知るということが軽く扱われています。「知る」ということは恐ろしいことなのです。

技法でない知に吸い込まれてしまった一部の人がオウムであります。

[5]続きを読む

04月18日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る