ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1823, 日暮里界隈 −3
「今まで食べていたご飯はなんじゃい!」というのが実感である。
20年以上前のジャーと比べるのだから、当然といえば当然だが。

数年前に寿司屋でTVと同じ場面に出くわしたことを思い出した。
シャリが美味しいので褒めたら、炊飯ジャーで炊いたと女将がいっていた。

電子レンジと冷蔵庫も20年使っているが、両方とも当時15〜20万もしたもの。
今は5分の1になってしまった。機能も含めると10分の1といってよい。

それにしても、我家の電気器具の物持ちがよいのに驚く。
それが当たり前なのかもしれないが、20年前と今の電化商品は全く
別物といってよい。

PDPTVやDVDやビデオやカメラや携帯電話などの技術開発は素晴らしい。
電気売り場に行く度に、その進化に目をみはってしまう。
ユビキタスが、その背後にあるのだろう。

高度の技術が身近な家庭や職場に、どんどん使われだした時に
時代は激変を始めるのだろう。

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2003年03月31日(月)
726, 結婚式で思う

私は結婚式と葬式に参列するのが好きだ。
その中に色いろな人生の圧縮がみえるからだ。

 一般には「人生で集まって褒めてくれる」のは、
「生まれた時と結婚式と葬式の三回」だけだ。
そのうち結婚式だけが、祝福されるているのが自覚できる。

「人生は結婚式で道半ば」ともいう。
それで人生の大半が決定してしまうからだ。
当たりか外れは神のみぞ知るである。

今はジミ婚になってきて「社会の体面や家どうしの対面」というより
「本人同士のお祝い、かつメルクマール」という面が強くなってきている。
以前よりは結婚式に対しては、気楽な式になったようだ。
若い二人が夢を持っての門出を祝うのは気持ちのよいものだ。

 つぎは葬式である。
本来葬式はお祝いであるべきだ。
その人が人生を終えて、無に帰っていくのを送る儀式である。
人生の卒業式である。悲しみであると同時に、その人にとって大きい意味を持つ。

参列して思うのは、その人の生き様がそのまま現れていることだ。
その厳粛な雰囲気がなんともよい。
その人の「魂と社会と世間がそのまま圧縮されている」といってよい。
人が一人亡くなるのは、その人の積み重ねた人生が無に帰ることである。

ごくわずかな身内の人達の心のこもった葬式が好きである。
それぞれの社会的なものもあろうが、今は生き残った人の体面の場になっている。
葬式もそれぞれの残されたものの価値観があるから、とやかくいう問題ではないが。

最近は葬式に出席すると、いつも遺影を常に自分の顔に当てはめて考えてしまう。
その目で会場の人達を見ると、何ともいえない気持ちになる。
「死んでしまえばお終いよ!」と。

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 2002年03月31日(日)
362,ある思い出-慈善

中学の頃の話である。
隣にMという一家がいた。
そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。

そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。
母親が肺病で、私のある姉にあの家の近くに近寄らないように言われていた。
カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。

カッチャンの父親は数年前亡くなり、
母親とカッチャンとその姉と3人の家族であった。
今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに精一杯の筈だ。
その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。

ところが彼女(母親)が癌で、なくなってしまった。
神も仏もあるものかである。
残されたカッチャンと姉さんは、おじさんと同居する事になった。

その肺病の母親もまた二年後亡くなった。
そして娘は施設に引き取られていった。

その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。
そのMという人の心に気がついた。
どういう気持ちでその苦しい生活の中、その人を面倒を見ていたのか。

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03月31日(金)
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