ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■795, 至高体験ー読書日記 -1
「真理や至高は語れない。それは静謐であることだから」と。そこには主観を放棄する、
無への意志がある.
至高体験という、そもそも不可解な事象は、まさにそれを言語化しようとする失先、
もはや“至高”ではなくなり、残された表層的なもののみが辛うじて語り得ることとなる。
それはさながら、近づこうにも到達できない展気楼のようである。
全てのあらゆる存在は、“普遍的な何か”の氷山の一角で、恐らくその一角を通 して
“普遍的な何か”の真相を垣間見ること、これこそが至高体験に於ける世界との
一体感なのであろう。
ノヴァーリスは、『青い花』の中で、登場人物のジルヴェスターに次のように言わせている。
「すべての感覚は、結局はひとつの感覚なのだ.」と・・・。
また、「この世の生を眺める超越的視点が、われわれを待っている。」
というノヴァーリス自身の箴言もある“精神の一点”“ひとつの感覚”“超越的視点”
そしてニーチェの〈知識に災いされぬ 純粋意志〉−これらの言葉はすべて、
同じものを指しているのであろう。
「至高とは進むことにして、進むとは遠くへ行くこと、遠くへ行くは還ることなり」
これは老子の章句の一部である。 まさに至高点は、ウロボロスのごとく自我へと帰結する。
我々は、常にデカルト的自我から逃れらないのであろうか。ロラン・バルトもまた、
「自分が主体であること、そうならざる得ないのだ。」と言っていた。
どうにもならない《自我》という視座・・・それは、ブルトンの言う“精神の一点”
すなわち《驚異なる意識》の通 過点に他ならない。 至高体験ではなくとも、
日常的な出来事の感動、そして《驚異》を外在化させていくことが芸術の始まりで、
その行為へと誘う“意志”と、結果 としての“意味性”が《神》なるものの認識の
始まりだったのではと私には思える・・・。
−しかして《神》の顔とは如何なるものなのであろうか。
「一切を疑い、かくして懐疑の苦悶から確信が芽生えなければならない。
恍惚の瞬間にこそ懐疑を招き寄せよ。なぜならその時残るものの中に、
真実と虚偽とを見いだすだろうから。」 J・クリシュナムルティ
06月08日(日)
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