ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■7955,^閑話小題 〜来年は、どうなるのだろう…?
と、スイスの安楽死団体に登録した。 安楽死に至るまでの日々、葛藤し続けた
のが家族。自殺未遂を繰り返す本人から、「安楽死が唯一の希望の光」だと
聞かされた家族は、「このままでは最も不幸な最期になる」と考え、自問自答
しながら選択に寄り添わざるを得なくなった。そして、生と死を巡る対話を
続け、スイスでの最期の瞬間に立ち会った。 》
 ―
▼ 生き方は選べるが、死に方は選べないのが世界の実情。その人がその人らしく
 人生を全うする安楽死は必要なのではないか。…見ているのが辛かったが、最後
まで当人が取り乱す様子を感じられなかったのは、そのまま延命措置を施しても、
『身の回りの事をやってもらって、ありがとうって言えなくなる気持ちがわかる?』
の言葉が決めて。 現在、安楽死を認めていているのはスイスだけ。だから自殺が
非公認で… 誰だって死にたくはないが、そうはいかないから問題。
もし逆に、死がなかったらどうなる? 私もあと二週間で前期高齢者の最終年に!
 余命、数ヵ月と宣言された瞬間が、いつ来るか? 覚悟をしているが、現実とも
なれば… 出来ることは、今日一日、充実して生きること。 
さて今日一日、何して楽しもうか。「死を考えることは、生を考えることになる。」
 
  経費は150〜200万! まさか、ツアーも組めないし!

以下のつながりある文章は、偶然です! だから死の問題は深いのです。
この彼女が弄ったのでは?

・・・・・・
2018年12月30日(日)
6499、つれづれに哲学 〜「1人称の死」と「2人称の死」の関係性
   * 「死」を通して家族の絆を考えてみる
 ギリシャ時代から『死』の問題が哲学されてきた。そして、その問題が目前
に現実問題として近づいてきた。【死】からみれば全てがカスリ傷でしかない。
だから直視して【生】を考えなければならない。死について、ギリシャの哲学者
エピクロス(B.C.3−4) の「快楽主義者」を思いたつ。「…われわれが現在する
ときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」と。
 それを人称を使ったのがジャンケレヴィッチである。
   〜ネット検索による内容とは〜
≪ 死の問題を考えるとき、フランスの哲学者であるジャンケレヴィッチの
 「死の人称」がよく引用されます。
ジャンケレヴィッチは、死を文法範疇の人称を使って三つに区分しました。
・「1人称の死」は(私)自分の死、
・「2人称の死」は(あなた)近親者の死、そして
・「3人称の死」は(それ以外)他人の死です。
日々、マスコミで信じられないような凶悪な殺人事件や海外でのテロ事件
などが報道されますが、これは私たちに直接関係のない「3人称の死」です。
  ♦ 1人称の死と2人称の死を、著書「死」の中で次のように述べる。
「父あるいは母の死は、ほとんど われわれの死であり ある意味では実際に
われわれ自身の死だ」(仲沢紀雄訳「死」 みみず書房)。すなわち、
「1人称の死」は自分の存在にかかわる悲劇的な出来事です。しかし、
「2人称の死」=最愛の人の死、これも「1人称の死」=自分自身の死と
同じくらいに私たちに大きな影響を与える重要な出来事なのです。
そして1人称の死と2人称の死は、重なり合っているのです。
  ♦ 2人称の死は、過去、現在、未来を失うこと
アメリカのユダヤ教の聖職者であるグロルマンも「2人称の死」の重要性を
次のように述べています。
「愛児を失うと、親は人生の希望を奪われる/配偶者が亡くなると、
 ともに生きていくべき現在を失う/親が亡くなると、人は過去を失う」
     (日野原重明・松田敬一訳「愛する人を亡くした時」春秋社)。
2人称である親、配偶者、愛児を失うことは、1人称の自分自身にとっても
人生の過去、現在、未来を失うのと同じだと言うのです。
 ♦ 儒教は生命の連続を説く
西洋思想に対して、東洋思想を見てみましょう。中国おける儒教の経典「礼記」
では、『身は父母の遺体なり』(加地伸行「沈黙の宗教 儒教」筑摩書房)と

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12月30日(金)
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