ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■7079,閑話小題 〜リーマン直後上回る最悪の落ち込み
成る程と合点がいったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回も
自問自答しているのに、その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。それを知って
いると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、
さっきの橋を歩いていた主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。
成る程と思いつつ、解ったようで理解できないモヤモヤが残っていた。
過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある
「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ? ところが彼は、
この本の中で、その「私」をみ砕いて解りやすく説明をしている。
  −p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。
だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がって
いるが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか? そこに独特の感じがするから? 
だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? こう問いつめていくと、
この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の作用
によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見い
だせない。「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? 
いや、胃がきりきり痛い時にそれと並んで独特の「私」という感じなどない。
そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?
多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」
とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなもので
あるはずがない。あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。
ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における
同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」もの。
しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、現在の側から
一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。「私」は、過去と
現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても見い
だせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによって
はじめて「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が
不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。
夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。「私」は、夢から覚め
「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。まさにその時、あれが
「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていた
ことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。
「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやり
もの思いに耽っている時など、いわば消えている。 しかし、あとから
「私は〜していた」と語れる限り、その時「私」は存在していたことになるのだ。
夢中で小説を読んでいた。ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう
三時間も経っている。私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。
一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。
じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で
過去のことを考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋
何とかいう未成立の?が、夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何か
を考えていた! ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、
また夜半にリアルな夢をみた  

・・・・・・

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08月01日(土)
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