ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6448,閑話小題 〜中間選挙の結果から…
その押しつぶされた退行状態。多くの感動体験が必要なのは、それらを中和を
させるフラッシュになるためである。幸せに生きた人は、幸せに死んでいく。

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4986,暴走する世間 −3
2014年11月08日(土)
      「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 世間学的エポケー
 節目時は、それまでを一度、清算して、新たな世界への区切りである。
その時に重要なのは、その時に感じたことを優先すべしというのは、現在の
私に言えること。その意味で、毎日、書き続けている、このブログは、大きな
役割を果たしている。だから、世間という幻想、幻覚に迷いそうな、いや、
迷っている自分を見つめ続け、世間学的エポケーの立場を守らないと、
その節目が薄れてしまう。 ーその辺りからー
≪ エポケーというのは、E・フッサールの現象学の用語である。
 エボケー{現象学的判断伴止}とは、自分がそれまでとらわれていた
主観/客観という世界認識の方法の自明性を、いったんカッコに入れるという、
世界像の判断停止のことである。これにならっていえば、自分がこれまで
自明であたり前だと思っていることの一切を、デカルトのように徹底的に疑い、
すべてをいったんカッコに入れる。 〜フッサールの現象学的判断停止
について、哲学者M・メルロー・ポンティが、次のように説明している。
< われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、このことに気づく唯一の
 方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいは
この運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フナサールがしばしば語って
いるように、この運勤に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、
この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている
諸確信を放棄することではなくて―それどころか逆に、これらの確信こそが
哲学の恒常的なテーマなのだ― むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟
の前提として〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用している
からこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させる
ために、われわれはそれらを一時さし控えねばならないこそそうするのである。>
 そのさいに重要になるのが、「内在」という現象学の方法である。
それによれば、自分の判断の根拠を、自分の「感じ」だけに置く。
いいかえれば、たいていのものは「可疑的」、つまり疑いうるが、疑いえない
ものがたったひとつあり、それが自分が「こう感じた」ということだという。 
簡単にいえば、他人がいうことではなく、「世間」の評価ではなく、自分が
素直に「感じたこと」だけを信じる、ということである。思いだしてほしい。
じつは、さきほどのべたように、これが阿部さんの「世間」論の方法だった。
自分が「感じた」ことだけを信じ、これに徹底的に言葉を与えてゆく。
すべてのものは疑いうるが、たったひとつ、疑いえないものがある。
それが自分の「感じたこと」なのだ。≫
▼「大病による長期休養」や、「長期間の旅」はエポケーになる。人
生には、一度、属している世界の外に出て、自分を見つめなおす必要性がある。
外側から、内側で「感じたこと」を感じなおす必要性である。以前から、
小さな洞窟内を自己に、その前にある湾を世間に例え、その外海を社会に
例えていた。自分(洞窟)と、世間(その前に広がる砂場)と、外界を見極めて、
外から、これらを見つめなおすことが必要である。所詮は、これらは集団幻想で
しかない、そのことを自覚するためにも! 
・・・・・・
6083,「砂の文明 石の文明 泥の文明」〜読書日記
2017年11月08日(水)
       「砂の文明 石の文明 泥の文明」松本健一(著)
 世界の「文明の衝突」を分りやすく説いた内容。砂、石、泥の例えが何とも妙。
人見知りもあり、パックツアーのシステムをフル活用をして、これまで51回の
海外旅行をしてきた。 パックとはいえ、そのエネルギーは膨大にかかる。

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11月08日(木)
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