ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2
▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。悪いことに親から相続しているため直しようがない。
現実を全く疑い持たない一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。
まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、これまた解釈の仕方ひとつ。
不幸の時期ほどベストのことが隠されている。ベストよりベターが良いモノと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや、自分か?
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3704,自己を見つめる −22
2011年05月17日(火)
* 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、
人間自身が、己を支えることが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、根本態度として神様無しにはいられない。
【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、
大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、絶対者への希求が現れてくるのである。
もちろん、その絶対者をどのようなものとして思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。
しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨を
すべて知り尽くし、その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、こうして、すべてについて、正義の秩序を
保持して、万物を支え、生かし続けるであろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、その者が、生起した
いっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うということが、
予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、
それらを本当の意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがあることを、誰もが理解しているからである。
そうした絶対者が、実際にどこかに、この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に存在するかどうかが、
問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、
懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい
祈願の強靭な根源性そのものが問題なのである。 そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが大切なのである。
言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした
絶対者の観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかもしれない。 しかし、私たち自身のうちには、
時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。
それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、
その究極の意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。 人間の生存の営為が無意味でないためには、その精進と努力の
いっさいを移ろうことなく見届け、意味づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。 誰もが、みずからの心の奥深くに、
そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間の存在の、畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。
それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳であり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】
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05月17日(土)
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