ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3175,学習性無力感
残された人々は、相手に害も及ぼしていない自分たちを襲い、悲惨な目に会わせた相手を悪の権化として呪うだろう。
それに比べ、罪なき自分たちは善である。「善悪」はこうして、カでは相手にかなわない弱者がせめて「道徳的」には
優位に立って、相手を見下そうとする心理、「妬み(ルサンチマン)」から発生する。
同じことは「正義」「節制」「勤勉」「清貧」などあらゆる道徳的価値に言える。
肉食獣に襲われた草食獣が円陣を組んで抵抗するように、弱者が強者から身を守ろうとする
「蓄群本能(ちくぐんほんのう)」から生まれたのが、ローマ帝国の奴隷にまず普及した
「奴隷道徳」としてのキリスト教である。}とあった。
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以上を、更に噛み砕くと・・・
たとえば、善を高貴で富んだ者とすると、 悪は、その反対の、野卑で貧困で弱い人になる。
しかし一方で、この価値判断に対立する考えがある。「貧困で弱い者は善である」という考え方である。
これをルサンチンマン=怨念と考えた。 カントは、キリスト教の教義「神は貧しき者の味方なり」
「貧しき者は幸いなり」など、キリストの名を借りて、貧しいものが善で、富める者は悪であるという
概念をつくり上げた功罪を厳しく批判した。弱者を正義に祭り上げようとした宗教は、もう必要はないと、
「神は死んだ」と主張。 まだまだキリスト教の教義にガンジガラメの当時の社会を変革しようとした。
キリスト教も、ユダヤ教が対象としなかった女や病人などの弱者の立場を擁護する教え。
そこにニーチェは、弱者善人、強者悪人という怨念の縛りを感じとったのである。
大部分の弱者である一般の人にとって、宗教は必要になる。 しかし、他の国や民族から、自国や民族を守るには
強者の支配も必要なこと。 その結果として、左手に聖書(正義)、右手に剣が必要になる。
ヽ(゚∀゚)ノ バイバイ!
・・・・・・・・・
2006年12月14日(木)
2081, あたりまえのことばかり −20
才八∋ウ_〆(∀`●)
ここでは哲学という視点で、心の問題を取り上げているが、感情について、なかなか切れ味は鋭い。
「激しい感情が、向こうからの訪れる」とは、なるほど!である。 向こう側とは何処なのか?
学生時代に[情念の話術]という本を読んで、実際に自分で試したことがあった。
喜怒哀楽を前面に出して、自分を押し出して、話しをする。車でいうと、感情というエンジンを前輪駆動にする。
これをやりだすと、それまでと全く違った自分を見出せる。
抑えている感情を逆に、エンジン代わりに言葉にのせて自分を奮い立たせる。
これは性格改造にもなるが半面、非常に危険である。一つ間違うと、周囲を深く傷つけてしまう。
これはヒットラーが大衆を煽動する手段として演説などに使った。よほど計算を緻密にしておかないと、
自分が見えなくなる。しかし自分の感情を常に支配下に置くに、よい訓練になった。
感情を道具にするのだから。傷つくということは、感情に支配さえていることだから!
ー傷を癒すには傷とは何か、傷つく感情とは何かを、考えてみなければなるまい。
虚構の自我に捕らわれている自分に気づいていない無知が、勝手に傷ついているだけ。
要点を抜粋してみる。
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どうすれば癒されるのか −?
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私が私であり、私の心が私の身体の中に存在するという錯誤の世界像を思い込んでいる人だけが、
各種のグッズやセラピーによって「癒される」。癒されたと思い込むことができる。
「本当」の傷を負った人々は、そのような単純な主客二元の処方箋では治療できず、
「本当か」の問いに直面するのではなかろうか。すなわち、傷ついている人は誰なのか。
「私の」意志を越えて立ち上がるこの感情の激しさとは何か。
「私の」運命はなぜこのようでなければならないか。私は私である、
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12月14日(月)
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