ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2893, 年寄りの持病自慢は、老人の猥談だと!
この本の中にも強烈な言葉が次々と出てくる。
・信長は本能寺で死んだからこそ信長であり、西郷隆盛は城山で死んだからこそ隆盛なのである。
 あるゆる欲望を満喫し、大往生した死に方は、その人の人生が誰の同情も関心も共鳴を買わないという点で、
   芸術的に失敗作である。

・フィリップ・アリエスの「昔の死は、人が死にいく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇である」を取り上げ、
   これによって、著者の風太郎が「人は管につながれて生まれてきて、管につながれて死ぬ」
   というアフォリズムを作ったという。
 
・「 臨終の人間『ああ神も仏も無いものか?』  神仏『無い』」
 「また臨終の人間『いま神仏が無いといったのは誰だ?』   答え無し。
  ー暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」
  −−−    
    ここからはこの本(風太郎の死ぬ話)から少し離れる!
    死といえば宗教学者であり東京大学教授だった
    岸本英夫の「わが生死観 」の言葉が深く響いてくる。
    十年間の死と闘いの中で冷静に死の恐怖の心理を克明に書いている。
     
     父の死に際をみていたので、その恐怖感が理解できた。
     
ーその一部を紹介してみるー

もう一度くりかえしていえば、死後の生命の存続を信じない私が、 癌というような思いもかけない病気のために、
  生命飢餓状態におかれ、死の暗闇の前にたたされたのである。天国や浄土などの理想世界を信ずるものにとっては、
死後の世界は、暗闇ではない。 一つの実体である。しかも、輝かしい世界である。
しかし、私にとっては、それは、真黒の暗闇であった。私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持で凝視しつずけた。
そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。
それは死というものは、実体ではないということである。死を実体と考えるのは人間の錯覚である。

死というものは、そのものが実体ではなくて、 実体である生命がない場所であるというだけのことである。
そういうことが、理解されてきた。生と死とは、ちょうど、光と闇との関係にある。
物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。
光がないというだけのことである。 光のない場所を暗闇という。
人間にとって光にもひとしいものは、生命である。 その生命のないところを、人間は暗闇として感じるのである。
死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見。
これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである。
  人間は、日々の生活をくり返して生きている。 これは、疑いのないことである。 人間にとって生命は実体である。
  しかし、人間にとってあることは、今生きているということだけである。
人間には、生命がある。 五十年か六十年か生きているが、その寿命の中の一日一日は、どの一日も、
すべて人間にとっては同じように実体としての生命である。
どの一日も同じように尊い。寿命がつきて、死が近ずいたとしても、
その死に近い一日も、健康の時の一日と同じように尊い。
そのいのちのなくなる日まで、人間は生命を大切によく生きなければならない。
死というのは別の実体であって、これが生命におきかわるのではない。
ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。
このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、
この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。
いかに病に冒されて、その生命の終りが近ずいても、人間にとっては、
その生命の一日一日の重要性はかわるものではない。
つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後までよく生きてゆくよりほか人間にとって生きるべき生き方はない。
このようにして、死の暗闇の前に素手でたっていた私は、このギリギリの限界状況まできて、

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03月07日(土)
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