ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2786, 人生ゲームを楽しまむため、生まれけん!
人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、自ら課した観念による錯覚のためで、人間は動物のように、
十全には生きてはいない。それ自体で転倒している死への恐怖を逆手に取り、再び大きく転倒させるものが宗教である。
あるいは、宗教は考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯のそこに、「死後」の絵を画く。
あたかもそれが、生の続きのように。
しかし、「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、文字通り観念としかあり得ないのは自明なことだ。
死が観念なら死後も観念である。ふと気づけば当たり前のことである。 人が死と対になった「死後」という観念から
離れられないのは、真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に流れるものという時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは、
人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象である。
人は、物理的肉体として生まれ、育ち、次第に老いて、次に死ぬ。
時間は、そのような物理的現在、物理的瞬間の重なりとして表象されているのである。
しかし、この時間表象によっては、決して表象されないときがある。
それが、それらを表象している正にこの現在、時間は一直線に前方に流れるものだと表象しているこの瞬間である。
「瞬間」など、どこにもない。捉えられるものではない。なぜなら物質ではないからだ。すると時間を物質によって表象し、
肉体の生死に等しく一直線に前方へ流れるものとのみ思うのは、誤りであることになる。
これは、自分の死はあり得ないという例の事実を裏から支持する。
物理的時間のうちに存在しない自分とは、物理的肉体ではない。
すなわち、自分は生きて死ぬこの肉体ではないということに他ならないからである。
死なない存在に死後はない。宗教が「死後」に言及することによって多く誤るのは、
あたかもそれが時間的前後であるように聞こえてしまうことによる。
「死後、永遠の生命を得る」。しかし、「永遠」とは「死なない」ということ以外の
いかなる意味であり得ようか。 永遠が死後にあるとは、既に破綻している。
我われの言語の構造が、物理的時間とは異なる時間のありように言及することを拒んでいる。
宗教が誤るのは、一直線に前方に流れ、死へ崩落していくと思われているこの人生に、
「意味」を語ろうとしているところにあるだろう。
−−
自分は生きて死ぬこの肉体ではない、というが・・・まあ、わからないでよいが、
しかし考え続ける必要はある。 それしかないのだろう。
(*^ワ^*)i バイバイ
・・・・・・・・
2005年11月20日(日)
1692, 二つのトッテ
「ものごとにはすべて、二つのトッテがある」という諺がよい。
(人`∀´)ィヒッ♪
何ごとも両面がある(今さらだが、例えとして判りやすい)+面の取っ手を掴む癖をつけるかどうかで人生変わってくる。
私のみるところ、意識をしてプラスを掴むようにしている人は1割も満たない。
平気でマイナスの取っ手を掴んでいる人をみると、その異様さに唖然とする。
家内にいわせると、おばさん系の地味な服装の人に多いという。
話題に暗い話をするのが恒例になっていて、マイナスの話に快感を覚えているという。
ン・・ ヘロヘロ α〜(´`d)ぱぁぁんちぃ
「この人!マイナスのトッテを意識的に掴んでいるのではないか?」と確信してしまう人が多い。 他人事ではないか?
弱者ほど、その傾向が強い。必ず対象のマイナスに気持ちがいっている反面「このプラスに隠れているマイナス面は何だろうか」
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11月20日(木)
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