ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2784, こんな経験したことありますか?
 (哲学との出会い;心の支え;神の世界で;楽天主義の根拠;教育の進歩;寛容の精神)
第3章 楽天主義の実践
 (厭世主義者;楽天主義の力;楽天主義の文学;神からの贈り物;
  光明を招く;キリストの福音;未来への確信;私の信条)
             
             ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・・・
2006年11月18日(土)
2055, あたりまえなことばかり −9
                  読書日記
            (~Q~;) おはよう〜〜            
     自分とは何、これは考えても考えても尽きぬ問である。
     孤独という実感の先にある「宇宙の真っ只中に浮いている意識」が真我であるのか?
     以前も書いたが、「禅」の字は「単を示す」と、新井石龍禅師が語っていた。
     「宇宙に誰もいない、ただ一つの生命」これを実感するのは死期を悟った時。
     これが苦しいのか、苦しくないのか経験したことが無いので今のところ解らない。
     恐らく、あのバンジージャンプの板の上に立った実感が近いのだろうが・・
     しかし、あの落ちていく瞬間の覚醒の意識が最後の見納めとして周囲を見渡す時の
     それなのであろうか。 私の場合の「私」は、このHPそのものである。
     このHPの先にいる得体の知らない「これ」である。デカルトのいう「考えている、『!』『?』」である。
     たしかコギトと表現していたが・・考えている、思っている、思い出している、想像している、これであるー> 
  ( ̄ω ̄;)!!エッ `s(・'・;)エ-トォ? .. (^┰^;)ゞオレ馬鹿 ?(゜_。)?(。_゜)? (>△<‖)ワカラネ〜
            (−◇ー;)!! ソウカ(・_・ゞ−☆ (/--)/ ドウデモ

ー孤独とは苦しいものなのか −A

 *自分とは何であろうか

たとえば、自分とは自我でなく、この肉体でもないとしたら、同じ理由によって、他者とは誰のことであろうか。
他者もまた、その自我でもその肉体でもないとしたら、孤独の癒しとして求められるような他者とは、自明なものだろうか。
孤独であることは、苦しいことと感じられるほど確かなものであり得るのだろうか。

    自分とは「何であるか」、他人や社会によって知ることができないと知ったとき、人は自我の向こうに自己をもとめて、
    船出することになる。実際に、対社会的形式もしくは機能としての自我など、それ以上のものでも、
    それ以下のものでもない。「私は誰の某です」そう言って挨拶する、そのようなもの。
    しかし、自分とはその姓名以上のものである、そう感じる時、人はそれとは知らず、魂としての自己、
    その内実に触れているのだ。このとき、これを観察し、探索するという「孤独な」作業、これをきらって、
    安直に他者をもとめに出向かわないことだろう。

魂としての自己、不可解であるという意味において豊かな内実は、それを知ろうという
態度にしか開かれないものである。その探索を「船出」と言いたくなるほど、なるほど魂としての自己は海に似ている。 
広い、深い、底が知れない。自我による「自分探し」の空虚さを、玉ねぎの皮むきにたとえる言い方があるが、それとは対照的に、
出合うもの全てが自己であると言いたくなるほど、また、じじつ言いえてしまうことの面白さがそこにはある。
孤独であるということは、隠棲して自己を見るということは、本来きわめて上等な楽しみ、一種の甘味な悦びであるはずだ。
    −−
  *性格とはそれ自体何であろうか?

    自分で好ましくない、そうありたくないと感じるにもかかわらず、そのようでしかあり得ないという
    当の事実によって、じつは性格とは、それ自体で自律した存在、自分からは独立した他者ではなかろうか?
    自分の性格とは、自分にとっての他者なのではなかろうか。
    あるいは、それぞれの性格が、それぞれの魂であるということも可能だろう。

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11月18日(火)
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