ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[396621hit]

■2383, 私の嫌いな10の人びと −2
 積極的に守られる必要があるということです。
 それを達成するのが、ウィゲンシュタインの「超越確実性言明」です。
 境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、
 「内側から」規定するのが「超越確実性言明」になります。

   ー<他者>了解不可能性ー
    私たちは<言葉>によって他人を認識するわけですが、その際の認識とは
    他人を制御するという目的のもとで行われます。
    私たちは<言葉>という道具によって、ある人の像を自分の内部に写しとりますが、
    写し取られた時点で、それは《私》がつくり出した像」となり、
    他者とは違ったものになります。

それは、制御するという目的の元で「認識」した像だからです。
それは「他なるもの」ではなく<私>に属するもんです。
<他者>と<他人>とは違うものです。
私たちは<他者>を直接的に認識することはできません。
これを<他者>認識了解不可能性」と呼びます。

   ー死者を「なでる」という行為が意味するものー
    私たちが生きる「一回性」の人生は(一回しか発生しえないという意味で)
   「奇跡の連続」ですが、最後には「必ず繰り返される現象」が存在しています。
    それが「死」です。一回性の人生を生きるということと、
    必ず繰り返される死の間には、整合性が存在しません。
    したがって、人は「死が必ずくること」を棚上げにしていく他はない存在である。
    私たちは「死を領海することができない」ことによる「回避的処置」です。

 私たちは、身体を持たされて、この世界に投げ出されている存在ですが、
 その「向こう」にある何かを感じることも、知ることもできません。
 自分の愛する者に死が訪れても、その「身体」は、物質として、
 まだそのままそこに存在しています。しかし、「死」に遭遇しても、
 その「何か」(=<他者>)の不在を、私たちは知覚できません。

    撫でればそこに存在していることを何度も確認しながら、そこに「存在する」
    何かの「不在」を次第に受け入れていくしか他ないのです。
    私たちは、それに届こうと努力します。それが「なでる」という行為です。
    とても切ない行為です。
    なぜなら、「決して到達しえないものに到達しようとすることであり、
    決して了解しえないものを了解しようという行為である」からです。
 ーー
後記)亡くなった旦那や親を、火葬場の最後の場面で撫でている場面を
何度も見てきた。深い本人も知らない何かが、あることは解っていたが、
その意味の一端を知らされた。愛する人の最後の最後の別れである。
その別れは自分自身との別れでもある。  Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
        
 ・・・・・・  
 2005年10月12日(水)
1653, 北イタリア旅行記−4
字数の関係上、カットします−2007年10月12日

 ・・・・・・・
 2004年10月12日(火)
1288, 「閑」のある生き方ー読書日記 −2

11章の「今ココに」の心得が含蓄が深いので抜粋して、そして考えてみる。
  ーー
・ー現在只今の自分を全肯定できること、これが人間として達しうる究極の境地である。
 そこに達すれば現世の中で翻弄されている最中でも平然としていられるのだ。
・「今ココニ」は過ぎ去っていくのではなく、自分が生きている事実がつづくかぎり
 同一のものとしてあり、しかもそれがただち永遠につながっていることが、
 次第にわかってくる。それは心の時間というべき状態である。
 鈴木大拙はそれを「零=無限」として、こう言う。
 
 「空」は空間の義に思い違えられるおそれがある。それで仏教者はいつも
 その弁明に悩まされるが、存在といえば、いつも空間の存在の義に考えられ、
 時間を入れない。しかし実際は空と時とを分けるわけにはいかないのである。
 空と時を合わせて「一念」というほうがよい。hereーnow が、それである。(略)

[5]続きを読む

10月12日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る