ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2242, 閑話小題
  女にとって「いかに生きるべきか?」と
 「次にどのブランドの何を買うか?」は、
  下手をすると同じくらいの重さを持ったりする。
  たぶんブランドは、プライドだから。
  少し自信が足りない女のプライド・・・。
 ーー
・美容の掟
  化粧もカーラーもバレたら無意味。
  高校生の私は、そこで自分のなかに初めて掟が生まれたのを感じた。
  美容はバレちゃいけないのだという・・・
 ーーーーー
 「こころを凛とする196の言葉」
 発行所 ソニー・マガジンズ
 著者 斉藤薫
                 − つづく
・・・・・・・・ 
2004年05月24日(月)
1147, 「唯脳論」 

この本も、なかなか面白い。
情報化時代だからこそ脳が問題になる。
脳こそ、情報器官そのものであり、それがコンピューターと結びつき、さらに
インターネットでネットされた現代社会では、最も注目されてしかるべきである。

自分の脳を公開して、さらに自分で時間をおいてみてみると、
自分でも面白いのだから、他人が見たらもっと面白いだろう?
この随想日記は「唯脳の世界」そのもの、それも重層に重なっている。

「現代人は脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。」
と著者は書いているが、ある意味で、このホームページもお伽噺なのかもしれない。

ー以下は、あるホームページの抜粋を、再構成したものである。
それにしても、神様か、高度の何かが人間や生物を創ったとしか思えないが。
ーーーー

養老孟司著 青土社刊
●はじめに

・現代とは、要するに脳の時代である。
情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。
ヒトの歴史は、自然の世界に対する、脳の世界の浸潤の歴史だった。
それを我々は進歩と呼んだのである。

・自然保護運動が、しばしば理性に反するようにみえるのは、その実態が「自然に帰れ」 
 運動ではなく、直感的な「反-脳」運動だからであろう。
現代人は、脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。
・・・・・ お伽噺に異を立てる現実とは、我々を制約するものに他ならない。
それは歴史的には常に自然だったが、いまでは脳になってしまった。

・我々はかつて自然という現実を無視し、脳というお伽噺の世界に住むことにより、
自然から自己を解放した。現在その我々を捕らえているのは現実と化した脳である。
脳がもはや夢想ではなく現実である以上、我々はそれに直面せざるをえない。」


●唯脳論とはなにか

・ ヒトが人である所以は、シンボル活動にある。言語、芸術、科学、宗教など。
我々の社会では言語が交換され、物財、つまりものやお金が交換される。
本来は全く無関係なものが交換されるのは、脳の中にお金の流通に類似した、
過程がもともと存在するからであろう。

・ ヒトの活動を、脳と呼ばれる機関の法則性という観点から、全般的に眺めようとする
立場を唯脳論と呼ぼう。

・一般に自然科学者は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる。
 客観性は自分の外部に、つまり対象にあると思いたがるのである。
「科学研究の結果」=業績は多くの場合、当人の脳の機能である。
しかも、その業績が誰にでも理解できるとしたら、それは誰の頭にも同じ機能が生じ得る
ということ。
そう考えると、「客観的事実に基づいた研究業績」とは、本当にはどこが自分の業績か、
判然としなくなる。
そのために、自然科学者は、自分と他人の脳のことなどは考えたくないのだろう。

・動物実験、つまり自然科学的手法だけでは、ヒトは理解できない。だから人文科学が存在する。
これは言語ばかりに頼るものだから、もめてばかりいる。ヒトの人たる所以をさらに
理解するには、将来は唯脳論に頼らざるをえないのではないか。

・医者は大体、理科と文科の間に挟まって往生するものである。両者を結び付けるのは脳であると

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05月24日(木)
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