ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[397607hit]
■1860, ローマから日本が見える−11
許すということは、自分の内面の魂の問題のかかわってくる問題である。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」であり、それは自分を如何に納得させるかの
折り合いの問題でもある。
許すというのは、ある意味で奇麗事なのかもしれない。
しかし、その奇麗事は最も大事ではなかろうか。
許しは、主体的なことである。
許そうと努力していれば、そのうちに忘却の彼方に消えていくものである。
残ったとしても、自分の記憶には「許し」という言葉が包んである。
ー以下は抜粋である
・人生まっとうにしようとするなら許すことを学ばなければならない。
許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己を結びつける方法である。
わたしたち全員が、他人を傷つけたことがあったはずだ。
問題は傷つけたり傷ついたりすることよりむしろ、その経験を忘れられないこと、
それを忘れようとしないことである。傷の痛さはそこにあるのだ。
わたし達は傷をためこみながら生きているが、その傷を手放す方法はだれからも
教わっていない。許しを必要とされる理由はそこにある。
許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。
許しは自愛的な行為といえる。
許さないということは、むかしの傷や怒りにしがみついているということである。
恨みの感情に栄養をほきゅうして、過去の不幸な部分を生かし続けることである。
許すことができなくては、自分自身の奴隷になるしかない。
・もうひとつ許しの障害になっているのは、報復してやりたいという欲望である。
報復という低次元な行為をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。
自分を傷つけた人に対する攻撃的な行為が,けっきょくは自分を傷つけるのだ。
・相手の過ちだけをみているあいだは、自分の内面をみる必要はない。
相手を許したときに、はじめて人生に力がよみがえり、傷を乗りこえて花開くことが
できるようになる。
・皮肉なことに、だれよりも許す必要がある相手は自分自身である。
自分がやったことに対して、やらなかったことに対して自分を許さなくてはならない。
過ちを犯したと思ったら、そのつど自分を許してやることだ。
まだ許しのレッスンがついてなかったと思ったら、身についてない自分自身を
許してやることだ。
・許しは一生に一度の大仕事ではなく、毎日つづけていく精神のトレーニングである。
それは精神的・霊的生活のメンテナンスのようなものである。
許すことによって平和が得られ、愛が維持できる。
だたひとつの課題は、ふたたびこころをひらくことである。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
2003年05月07日(水)
763, 地方差別
東京では、地方出身者は田舎者と露骨に差別される。
学生時代に東京に住んでみて、驚いたのが地方差別であった。
解らないでもないが、都会生活での初めてのカルチャーショックであった。
今でも海外旅行のパックの同行者の意識で驚く事がある。
それも強い負け犬の立場の人?に露骨に顕れている。
一番面白かったのが「ケニアのヌーの河渡り」であった。
都会のハイミス・ゴールドミス(グランド・オールドミス)がすざましい
ひと達だった。具体的には書きたくないが、その傷口の血は濃厚だ!
もう二度と、その血を浴びたくはない!洗っても数年は落ちないほどだた!
自分のプライドを守る為に弱者を探すと地方差別が一番手っ取り早いのだろう。
何処かのヨーロッパの空港の待合で、江戸っ子の職人風の父子がいた。
話しかけたら「貴方は地方?それとも東京出身?」と聞いてきた。
新潟と答えたら、一切話をしないで露骨な可愛い差別を始めた。
こんなものである。
学生時代に外国旅行に行った時、ある同行の女性が思わず本音が出た。
「最近帝国ホテルも、地方のお上りが多くって質が落ちていますわ!」
その一言で最後まで嫌われて、総スカンをくらってしまった。
「父親は同行の女性の会社の子会社の下っ端の役員でしかないないのに!」
とすぐに陰口が入ってきた。
[5]続きを読む
05月07日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る