ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[398016hit]

■1698, 辺境へ −3
生き残って欲しいと思われるだろう。なにゆえぐずぐずしておられるのだ」

私は伯父の安否が分からないのに自分たちのことを考える気にはなれないと
答えたのですが、彼は逃げ遅れることを恐れて、私たちを置いてすさまじい
勢いで走り去っていってしまいました。

ほどなく、雲が地上に降りてきて海を渡りました。
雲はカプリ島を包み込んで視界から消し、ミセヌム岬を隠しました。
その時、母が私に逃げてくれと懇願しました。

私は若いから逃げられるが、母は年老いて太っているから体が言うことを
きかない、母のせいで私が死ぬのでなければ喜んで死んでいけるというのです。

私は逃げるなら一緒でなければ嫌だと言いました。
そして母の手を取り、無理矢理に急いで歩かせました。
母はしぶしぶ言うことに従ったものの、足手まといになるといって
自分自身を責めました。

このとき灰が降ってきましたが、まだまばらでした。
振り返ると、黒く厚い霧が背後に迫り、地面に広がる急流のように追いかけて
きていました。
「視界のきくうちに回り道をしよう。闇の中でころんで、一緒に逃げている
群衆の下敷きになるといけないから」と私は言いました。

そうして、ちょうど腰を下ろしたとき、夜がやってきました。
月のない曇った夜というよりは、明かりを全部消して閉め切った部屋のような
闇でした。
女たちのしゃくり上げる声や赤ん坊の弱々しい泣き声、男たちの叫び声が
聞こえました。

父や母を探す声もあれば子供や妻を呼ぶ声もあり、みな相手の声を聞き分けようと
必死でした。自らの不幸を嘆き悲しむ者、家族の運命を嘆き悲しむ者、
死の恐怖にかられて死を望む者、両手を差し出して神に救いを求める者。
もうどこにも神はいない、この永遠の夜が世界の終わりなのだと説く者も
数多くいました。

見せかけや偽りの恐怖こよってかえって危険を増大させている者も少なく
ありませんでした。
ミセヌムではあの建物が倒壊した、あの建物が焼けたなどと触れ回る者が
現れました。それはデマでしたが、信じる者もいました。

弱々しい光が現れましたが、それは昼の光ではなく、火が近づいてきた
しるしのように思われました。
ただし、少なくとも、火はかなり遠いところで止まったようでした。

再び真っ暗になり、重い灰がどっと降ってきました。
ときどき起き上がって灰を払い落とさなければなりませんでした。
さもないとすっかり灰をかぶり、その重みでつぶされていたでしょう。

私は、これほど恐ろしい危険の真っ只中にいながら、嘆いたり、情けない言葉を
吐いたりしなかったと豪語することも許されるでしょう。
それは、自分とともに万物が滅びるのだと考えることで、つらいながらも
慰められたからだったかもしれません。

最後に黒い霧は薄れ、煙か雲のように消えていきました。
まもなく太陽が姿を現し、本物の昼が訪れました。

とはいえ、その太陽は日食のときのように青白い色をしていました。
まだおぼつかない視界では、あらゆるものが雪のような厚い灰の層に埋もれ、
新しい様相を呈していました。

ミセヌムに戻った我々は元気を少し取り戻し、希望と恐れとが入り交じる
不安な一夜を過ごしました。それでもやはり恐れの方がまさっていました。

というのは、地面は相変わらず揺れていたし、ぞっとするような予言に
錯乱した者が方々で自分や他人の不幸を嘲弄して回っていたからです。
しかし、このときでさえ、危険の訪れを懸念しながらも、伯父の消息が
分かるまで出発する気はありませんでした。


  以上が私の身に起こった出来事です。
歴史に残すにはふさわしくないつまらない話ですから、お読みになっても
貴兄の著作に書き入れる気にはなれないでしょう。
また、もしこれが手紙の名にさえ値しないとしたら、
私に頼んだ貴兄自身を責められるべきです。
では。

・・・・・・・
・・・・・・・

 2003年11月26日(水)
966, 悪口についての一考察 −2


[5]続きを読む

11月26日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る