ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■795, 至高体験ー読書日記 -1
 そもそも脳内には快楽物質エンドルフィンや、想像力や幻覚をも感知し得るA10神経なるものが
存在している。神秘体験やヴィジョンすら、脳内の神経反応という大脳生理学からの
見地もあるのだ。上記のA10神経と言われるものは、何でも愛情にも大いに開係しているらしい。
もしそうなら幻想やエロティシズムが、文学、芸術に於いて大きな役割を果 たしている
理由が頷けるような気がする。そもそも幻覚剤などの効果とは、元来人間の裡に潜在している
能カを一時的に賦活させるだけなのであろう。
 
 次に至高体験の裏の面とも言える《ヴァステイション》(壊敗)についても少々触れなくて
なるまい。このヴァステイションという言葉は、小説家ヘンリー・ジェイムスが自らの体験を
称したもので、今まで挙げ連ねてきた新鮮で美しい幻覚や、素晴らしい至高感とは打って変わる。
それは、幻覚への畏怖とその不可解な違和感など、ただひたすらその現象に対しての
戦慄に捉われてしまうことを指している。
異端の作家や天才的な人物は、その希有なる才能からか、至高体験やヴァステイションを
経験したという記録が数多く残されている。
 画家エゴン・シーレは、「芸術は自然を目標とし、が、そこには“神”がいて、
私はそれをもっとも強く、もっとも激しく感じる。」と言い、舞踏家のニジンスキーは
「私は神だ。神なのだ!」と言って発狂し、ドストエフスキーは癲癇を起こして
“時間を越えた瞬間”を経験した。ゴッホやニーチェもまたしかりであろう。
至高感には、世界へのまったき肯定が喚起され、通常に悪徳とされるものでさえも、
ひとつの“あるがまま”な存在として眺めているような状態が起こる。
 
  ニーチェの思想の内にも、世界の悲劇さえもがひとつの美として、
生命の内に躍動する一点〈巨大な希望〉や、〈知識に災いされぬ 純粋意志〉など、
至高感の示唆らしきものがある。一方、破壊的なまでの生の過剰、生命の根源的エネルギー
であるディオニュソス的なものも、それはすなわちヴァステイションのことではないだろうか。
  作家コリン・ウィルソンは、〈知識に災いされぬ純粋意志〉を、力(生のエネルギー)
を垣間見ること、そして“全てを肯定する悟り”と同一ではなかろうかと記述していた。

しかし、極端に傾倒さえしなければ、それは人生の大いなる希望ともなる。
心理学者エイブラハム・マスローは、フロイディズムの病跡学にのみ向いた心理学ではなく、
幸福感や至高感へと目先を向け、健康人の心理学を新たに提唱した。 だがたとえそれが、
マスローの示す健康人のものであれ、薬物に因るものであれ、何にせよ、
至高体験は精神への強烈な刺激に対する内的反応に変わりはない。
それはまた、“感動”と換言しても差し支えあるまい。
−“驚異、感動”という刺激は、“快楽、恍惚”であり、ともすると人は虜になり、
何度も繰り返したいと願うことも少くなくないだろう。
それはしかし、人を小羊のように従わせはするものの、知的判断を鈍らせる要因ともなる。
そこへ更に罪、罰、恐怖、禁忌などを付加すれば、信仰、そして宗教の原始的形態が
できあがるだろう。元来、宗教とは、人間の本能が高度に美化されたものであり、
社会的動物の所産でもあろう。
 端的に言うと、人間の普段の意識は、物事との関係上に成り立つ認識と、その繰り返しに
よる経験則に終始しているが、至高体験の場合、それは通 常の意識を越えた、
“精神エネルギーの過度の流出”であり、変容意識での幻覚や達観などは、
認識のオートマティズムとでも言おうか・・・。 “精神の過度の流出”とは、
すなわち並外れた自我への洞察であるとも言えよう。

 ヤーコブ・ベーメは、ヴィジョンを再び得るためには、洞察、内識が必須であるとし、
クリシュナムルティも、深い洞察からこそ真理はやってくると言っている。
それゆえ彼は決して至高体験の恍惚には囚われなかった。
禅のように、至高点すらも冷静に眺める姿勢を忘れなかったのである。彼はまたこうも言う。

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06月08日(日)
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