ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[384221hit]
■7120,読書日記 〜『わが人生の三大原則』 山折哲雄著
エゴが顔を出してくるのは、誰もが経験すること。エゴを蔑む人は、極限に
立ったことの無い人だ。俗にいう、「世間様たち」「行動範囲数十mの人たち」。
家内に言わせると、そういう人が実に多いらしい。 ジムと近所のSM以外、
何処にも行きたがらない人たち。 そういえば、最近の私も似たようなものか。
・・・・・・
6024,明るく死ぬために 〜1、まずは内容紹介から
2017年09月11日(月)
『明るく死ぬための哲学』中島義道 (著)
この春に出たばかりの、中島の本。「どうせ死んでしまう」と、死に対して
異常なほど恐れ慄き、逆に直視して、どこまでも堀下げている。死のイメージ
は暗く、絶望に満ちている。あれだけ気丈の人が、目先に余命を告げられると、
その恐怖に、恐れ慄く。数十年、いや、一生かけて自問自答して、自分自身で
土台を構築をしておくべき問題である。「人間は死なない。なぜなら自分が
死ぬことを見ることができないから」というエピクロスの言葉が実に納得できる。
成るほど、70歳を過ぎると、後方から前方に回って近づいてくるというが…
ー内容紹介ー
私が住んでいる世界、私が見ている世界は「このようにある」のではない。
客観的世界のあり方と、「私がある」というあり方はまったく異なるのだ。
「私がある」とは、私がこの世界には属さないということである。
では私が死ぬ、とは果たしてどういうことなのか?
私が死ぬとき、私は新しい〈いま〉に直面する――。
子どものころから死とは何かを問い続けてきたカント哲学者が、
古希を迎えて改めて大難題に挑んだ哲学的思索。
はじめに
1章:古希を迎えて
2章:世界は実在しない
3章:不在としての私
4章:私が死ぬということ
=Amazonビュアーより=
《 中島哲学に最も共感を覚えるのは、それが死を ―とりわけ「私の死」を―
モティベーションとしている点である。「哲学の最大問題は死である」という
中島の言葉には全く同感であるし、ともすればタブーになりがちな死を真正面
から論じているのは哲学だけであろう。「死がなければ哲学もなかった」と
ショーペンハウアーも言っている。
一般常識によれば死とは「世界から私が消滅し、私の死後も世界は存続する」
ことを意味する。しかし中島はその残酷さに耐えられなかった。そして二つの
突破口を見出す。
・一つ。世界はそもそも実在しない。よって私が死んでも私は何も失わない。
・もう一つ。私はそもそも実在しない。実在しない私が消滅することに意味はない。
中島は自分が消滅して世界が存続するよりも、自分の死とともに世界が消滅
する方がまだ救われるというようなことを言っている。しかし自分は全くそうは
思わない。どうせ自分が消滅するなら、むしろ世界は存続してほしいと思う。
そのせいもあるのか「世界は実在しない」という中島の一方の戦略は、それが
正しいか否かは別にして、少くとも自分にとって死の解毒剤とはなりえなかった。
むしろもう一方の「私は実在しない」という戦略の方が、自分にとっては
はるかに有効だと思われた。もっとも「私は実在しない」という議論自体は、
それほど目新しいものではない。サルトルは対自存在としての私を「無」として
定義したし、永井均の自我論もとどのつまりは<私>を身体や記憶とは無関係な
「世界の原点」として位置づけている。ドーナツの穴はドーナツを食べても
何一つ傷つかない。 しかしながらもう一つ、中島の指摘していない突破口が
あるような気がする。それは「私にとって死は実在しない」というものである。
死は必ず他人に訪れる。私が死ぬとき、私はもうそこにはいない。エピクロス
が言うように「死があるときわれわれはなく、われわれがあるとき死はない。
よって死とわれわれのあいだにはいかなる関係も成り立たない」。
私と死はあくまでも無関係にとどまる。そもそも私が死ぬことは証明されていない。
未来は常に不確定であり、私と他人はあくまでも別人である。しかるに今まで
[5]続きを読む
09月11日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る