ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6486,閑話小題 〜いや、まいりました!
ところで、これって「哲学する」というより、「相撲談義」じゃない?
・・・・・・
3552, 何に出会うかを、成長と呼ぶ
2010年12月16日(木)
「何に出会うかを、成長と呼ぶ」 ある雑誌の新聞広告にあった言葉である。
実際に出会った人、著書を通して出会った人、宗教的啓示で触れた何もの。
大自然の荘厳な景色から受けた感動、絵画や音楽を通して感じた作者・作曲家
の魂など、出会いそのものが成長になる。マイナーの何ものかの出会いは、
マイナー成長ということか。その中で、書物を通して崇高な教えや啓示などの
出会いは、一番身近で誰もが出会う機会になる。最近は、ネットやテレビや
映画などからも多くの出会いが可能になってきた。長年の風雪の中で、これまで
読み継がれてきた古典には、何かがある。その辺から多くのことを学ぶことも
出会いになる。65年間に多くの出会いと別れがあった。自分が経験してきた
蓄積が新たな出会いを呼び込むのである。 最後は自分の「死」の直感という
厄介な何に出会うのだろうが。それも刷り込まれたイメージでしかない。
出会いといえば、感動が伴なった経験である。人はどれだけ、感動、感激に
出会えるかで人生の豊かさが決まってくる。ところで、この出会いに関して、
本当に豊富であった。その蓄積が、さらなる上質な感動の場面を作上げる。
感動した対象に対し我われは何だろうか?と知りたくなる。それが、考える
キッカケになる。もう一つ、出会いの中で、宗教がある。知識を持ってしまった
人間は、いずれは死ぬ運命にあることを身近の人の死を通して知ってしまう。
それは二人称の死で自分の死とは違うと分かっていても、長年かけて、知人の
遺体と焼却を目の当たりにすると、二人称の死を一人称の死に重ね合わせて
しまう。出会いこそ人生であり、生き方が変る。未知との遭遇、無知との
遭遇、人生には色いろある。
・・・・・・
5024,読書脳 ぼくの深読み300冊の記録 ー2
2014年12月16日(火)
『読書脳 ーぼくの深読み300冊の記録 』立花隆(著)
* ドーキンスの『神は妄想である』
ランダムに、印象の強い順に取り上げてみる。ここで、ドーキンスの
「神の定義」が、簡潔に書かれている。何か現時点の私の考えそのままと
思わせられる内容。自然界の、動植物の美しさは誰が創ったか? 自分自身に
起こる因果応報のリアルさは、神が与えたのでは?とか、いま、ここにある
自分という存在の不思議さ等々、考えるほど不思議なことばかり。
ーまずは、その一節からー
≪ リチャード・ドーキンス『神は妄想である』は、無神論を説く本という
より、神の存在を信ずる有神論者に対する激しい批判の書。 一口に神と
いっても、さまざまな神がいるから、まず定義が必要になる。ドーキンスは
単なる宇宙創造神を信じる人にはあまり目くじらを立てない。ドーキンスが
はっきり否認するのは、創造されたあとも被造物のその後の運命をいまだに
監視し、影響を及ぼすような超自然的存在。 「人の祈りに応え」たり、
人の罪を赦したり罰したりするなど、主体的意図的に行動する神。奇跡を行う
ことで世界に干渉する神。人間のすることや考えることを常にウォッチして
それに対応して行動する全知全能の人格神。ドーキンスが信じるのは
「存在するものの整然たる調和のなかに自らを現している神であり、人間の
運命や所業に関心をもつ神ではない」というアインシュタインの神。
あるいは、「もし〈神〉という言葉によって、宇宙を支配する一連の物理法則
を意味するのであれば、そのような神は明らかに存在する。この神は情緒的な
満足感を与えてくれるものではない」という、カール・セーガンの神。
要するに、ドーキンスは汎神論的な神ないし、理神論的な神は認める。
しかし、「ここに、悪く書くことをいっさい許されない一つの考え、ないし
概念がある。けっして許されないのだ。なにゆえに? ―許されていないから
許されないのだ!」というような盲目的信仰には激しく反発する。 ・・≫
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12月16日(日)
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