ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5757,閑話小題 〜ファースト・クラスのラウンジ
『まず自分史を書きなさい』」ということである。自分史を書きながら、自分の
人生のさまざまな岐路となった場面を思い起こす。そして、その前後の状況を
思い出しつつ、ああでもない、こうでもないと記憶を呼びさまし、その前後の
あれやこれやの記憶を反笏してみる。 あのときの、人生の岐路に立って下した
自分の決断、判断は正しかったのか。あるいはあのときの自分の行動・言動
などがちがうものになっていたら、別の人生が展開する可能性があったのか。
そしてそのほうがよかったのか。それとも、よくよく考えれば、すべては
ほとんど必然的に起きるべくして起きたことだったのか、などと考えをめぐら
して、後ほぞ悔の念で膀をかんだり、自分の人生に妙に納得したりするわけ。
そのように思いをめぐらすことこそが、自分の人生はなんだったのかを考える
ことそのものになるわけだ。先回りして言っておけば、こういう問いに対して、
堂々めぐりの記憶の反駁をいくら続けても、「自分の人生はこれでよかったか」
という問いに対する、正しい答えには、決してならないだろう。いずれに
しても、歴史的時間の中でリアルに起きたことだけが、起きたことであり、
それは今さら変えられないことなのだから、自分の人生がこれでよかったか
どうかは「言うてせんなきこと」に属すると言えるだろう。しかし、人生を
ふり返るというのは、結局のところ、「考えてもせんなきこと」を考えること
であり、「言うてせんなきこと」を心の中でつぶやいてみるという行為である。
還暦を迎える頃になると、みんなそうせずにはいられない気持ちが湧き上って
くるものらしい。つまり、それはそのあたりの年齢が、自分史を書く適齢期だ
ということである。本書は、その年齢にさしかかった人々に読んでもらいたい
と思って書いている。≫
▼「自分の人生は、これでよかった?」の問いは、永遠の問いであり、
良くもあり、悪くもありで、考えてもせんなきことを考えることである。
そこで、簡単な手立てとして、身近な他者の粗探しを始める、その辺の
『世間人』に成り下がっていく。あのゾンビたちである。縦に貫く蓄積が
ないため、身近な人の、それを見つめるしかない、あの方々に陥る。
・・・・・・
5027,読書脳 ぼくの深読み300冊の記録 ー4
2014年12月19日(金)
『読書脳 ーぼくの深読み300冊の記録 』立花 隆 (著)
* 悪魔憑き 〜ミシェル・ド・セルトー著『ルーダンの愚依』
映画で幾つか悪魔憑きの場面を見たが、実際に、具体的事実?
を読むのは初めて。 ー以下は、実際にあった内容?ーだから、驚きである。
≪ ミシェル・ド・セルトーの『ルーダンの愚依』がはじめて全訳された。
「ルーダンの慰依」は、十七世紀フランスの田舎町の女子修道院で起きた、
歴史上最も有名な集団的悪魔憑き事件。十七人の修道女からなるウルスラ会
修道院に、数週間前に亡くなった告解師の亡霊があらわれた。霊はしばらく
修道女のベッドの脇で泣いた。 別の亡霊が次の日真っ黒な球のかたちで
修道院の食堂にあらわれ、二人の修道女を乱暴に地面に押し倒し、肩に乗った。
やがて修道女たちの肉体と精神に奇妙な変調があらわれ、次々に判断力を失い、
全身がすさまじい痙攣に襲われた。教会の上層部は動転し、調査をした結果、
この事件の犯人は悪魔だと判断した。「悪魔祓い」が専門僧の手で行われた。
悪魔に名を名乗れと命じると、「神の敵」という。悪魔にとりわけ狂った
院長の体から出るよう命じると、院長は暴れ回り、吼え、歯をきしらせ、
奥歯が二本抜けた。悪魔と問答を続けているうち、悪魔を彼女の体に
入れたのは、ユルバン・グランディエという別の教会の司祭であると判明。
「彼女たちは叫び、グフンディエを探そうとして、修道院の屋根に駆け上り、
また肌着だけで木のうえに、それも枝の先までよじ登ったのです。
そこで恐ろしい叫び声を上げながら、風や雨に耐え、何も食べずに4〜5日も
留まっていた」。この悪魔憑き事件は、たちまちヨーロッパ中に知れわたり、
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12月19日(月)
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