ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解しさえすれば、同じものなのだ。
ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのだろうか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、
という対立図式を超えるのが仏教哲学の論理だ。・・・・ 
 〜(略)湯船につかって、「あ〜あ、きもちいい〜」と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。
育ちも実績も関係ない。欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中している。
実は、あっけないことに、これが、「リラックスの極限」=「悟り」だ。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、
静かで満ち足りていて、心の安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と
悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。が、そんなことはない。
期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
 ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。
  しかし、人生にとってベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの人生を圧縮して生きる」
 と決意して、その通り実行してきた。しかし、まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
   * その人の思想とは一つの行為である    ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
    心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
    ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
    今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
    他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
    掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
    子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
    それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たものでなければ、
    けっして心に達するものではない。       (ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。
  この人物には思想がある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、そのように生きる、その生き方の
  言葉や行動にあらわれたもの、ということになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値するのだ。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、
  そんなふうに言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、というのである。なぜなら、ひとは自分が
  しんから正しいと考えたこと(それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの全存在を賭けてそれを言うのであり、
  それが周囲に認められ、あるいは否認されることで、己というものを知るのだから。≫
 ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、
  その場で文章化して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッターチャンスを待つが、その間、頭の中で、

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05月11日(日)
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