ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4481, 静かなる大恐慌 ー1
≪「思う」もしくは「我思う」主体が狂気を携えていることはありえない、としている。「Aという定理は間違っている」ということを
新たな「Bという定理」から指摘することはできるが、「私は狂っている」ということを「狂っている主体」が言うことはできない。
もし言うとすると、それは「正しい」ことを言っているのであって、狂っていないことになる。私は先ほど狂っていたが、今は正常です、
と言うことも基本的にはできない。そうすると錯覚や夢とは次元が異なるものとしてデカルトは狂気を提示していることになる。
そうであるがゆえに、「私が考えるということは、狂ってない人間」の特権と化すのである。
・・・つまり、「我思う、ゆえに我在り」を成立させることによって、「我狂う」場合は「我狂う」という言明もできないし、
「我在り」も成立しないと言っているに等しいのである。狂気は「懐疑する主体」によって最初から排除されているわけである。≫
≪・・・デカルトは、本当に確かなものはこの世にあるのだろうかと考え、考え尽くした上で、疑えないものなぞない、という結論に至った。
この世に何も頼れるものがないとは、きっと途方に暮れただろう。しかし彼はこの問いをさらに突ぎ詰める。そして、まぎれもなく
確かなものを発見した。それは、「すべてを疑った」、そのこと自体は確かだ、ということである。つまリ、疑い尽くした「我」が
「在る」ということだけは、動かしがたい「真実」であるということだ。懐疑の果ての確信。考えれば考えるほど、「自分」以外に
確かなものはない。だからあなたのように、「自分らしさ」や「本当の自分」を探るということは、至極当然のことであって、
そこにリアリティを感じるのは自然なことだ。ここまではよい。しかし、ここからが大問題だ。あなたは、いつか「本当の自分」を
見つけることができると思っている。だが、それは本当に可能なのだろうか。 もしかすると、前章でふれたソクラテスが導念した
「自分の魂を磨くこと」とは、、今でいう「私らしさ」の追求ではないのか。そう思う人がいるかもしれない。だが、ソクラテスが
目指したのは【魂の鍛錬】であって、「私らしさ」ではなかった。彼には「私」とか「主体」いうものの考え方がなかった。
「ソクラテス」はいたが「私」ではなかった。 この「私」を発見したのは、今から四百年前、日本で言えば江戸時代初期に生きた
デカルトによってである。では、デカルトこそ「私探し」の元祖なのだろうか。実はこれも正しいとは言えない。デカルトの目的に、
世の中に確実なことがあるのかを見極めることであった。探していたのは確実性であり、「真理」である。その真理が実は、「私」を
拠点としていたのである。確実なものとして「私」は登場してくるのであって、探さねばならないものではなかったのだ。 ≫
▼ <「私は狂っている」ということを「狂っている主体」が言うことはできない。> は、「嘘つきのパラドックス」に似ている。
エピメニデスという哲学者が「クレタ人は嘘つき だ」と言った、話である。困ったことにエピメニデス自身がクレタ島の出身。
だとするとクレタ人が嘘付きだというのならエピメニデスも嘘つきなのだろうか。だとすると「クレタ人は嘘つきだ」という言葉
自体も嘘なのだろうか。だとするとクレタ人は嘘つきではないのだろうか。ではエピメニデスの言ったことは正しいのだろうか?
ではクレタ人は嘘つきなのだろうか? という哲学問答である。人生を振り返ると、「私は狂っていた、ゆえに私の人生、
ないがごとき」が、実は人生の実相と思い悩んでいる。狂っていたなずと、狂っていれば言えない。悩みなど、そんなもの!
ちっぽけな人生、何を悩む? しかし振り返れば狂っているとしか思えない。 これは私だけではなく万人にいえるが・・・
・・・・・・・
3741, パチンコ店が何故、廃止にならないのか ?
2011年06月23日(木)
指摘されて気づいたことだが、日本でのパチンコの容認である。その存在を誰も不思議に思わない日本の戦後体質と世論である。
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06月23日(日)
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