ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3979, よかまん ー2
彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。
彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりする
ことのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。
こちらの方が私の感じ方に近いからだ。 ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念で
あることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
・・・つまり、私たちは生命の大きな流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体とし生きているが、
やがてまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに思うようになってから
体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。
こうした一種アニミステイックな死生観を整理し体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化など
しない方がよいのかもしれない。 本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを
言っていられるかどうか自信がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を理性で
乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に引き戻されて一滴が固体の死のイメージを
述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
・・・・・・
3249, 最近のベーカリー事情
2010年02月16日(火)
* ベーカリーのファーストフード化
数ヶ月前から週に2〜3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。中でも食べられる。
300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、専門店街の菓子屋が売っているオニギリを買っている。
その御蔭か週一も外食に出なくなった。要は気晴らしに出ていた外食が面倒になったのだ。
ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の青山に去年の暮れにオープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)も出来るベーカリーで、レストランのような外観と、
イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・
その話を聞いて、「ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある自由食事スペースの
テーブルと椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。 成るほど、親子三人でパンやミニピザを
2〜3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。 長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリーで、パンを買った
(字数の関係でカット12年02月16日)
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2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ −2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、これは成長モデルそのもの。
結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質はネズミ溝であるからだ。
その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の永遠のテーマと重ねる。
突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。 共同幻想でしか人類はコントロールできないとすれば、
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02月16日(木)
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