ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3715, 閑話小題
連載中の本に書いたのですが、読者からありがたい手紙をいただいたのです。「よき細工は少し鈍き刀をつかうという」
『徒然草』の一節についてで、それまで私は「鈍き刀」の意味を「あまり切れすぎる刀では美しいものは造れない」というふうに
思っていたわけ。でも違ったの。 その方は「鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎ抜いて、刃が極端に 薄くなり、もはや用に
立たなくなった頃、はじめてしの真価が発揮される」というのです。 ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀と
いうんじゃないんですよ。本当に鈍い刀を磨いでもだめ。 いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロンに柔らかくなるんですよ。
兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は「鈍き刀」じゃダメなんですよ。
それが良くわかったの。
ーー
白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい言葉の剣先が鋭い。
鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。
言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 芸道や能力のことを言っているのだろうが。
・・・・・・・・・
2611, サルトルについて、考えてみる −2
2008年05月28日(水)
改めて、読んでみるとナカナカ新鮮に思えてくるところが多い。読んだ当時から40年経て、経験を多くつんだこともある。
当時はピンと来なかったことも、今では深く納得する。経験は、やはり「自分」の財産なのである。
ー以下の論が、非常に面白い。
*「意識」のあり方は、どのようなものか?
サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付けて考える。
人間が世界へと「「関わって」いる、ということは、人間は世界では「ない」ということなのだ。
たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、窓の外の木ではない。サルトルは、人間が「世界に関わる」という
あり方をしているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、人間と世界の間には「すき間」「裂け目」
がある、ということだ。人間が「世界と関わる」ということは、人間が「世界との間に裂け目を作る出す」ことだと考える。
サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の
「モノ」なのではなく、「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、いわば世界の中の裂け目、世界の中の無である。
それは、意識が、関係する片方の「モノ」ではなく、「関係」そのものであり、外部の世界への「矢印」そのものである。・・・
「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく、「自分自身に対して」も裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。
人間は、常に過去の自分から脱出して新しい自分になっていく存在である。
過去と現在を乗り越え、未来に向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
〜〜
解)人間の意識が、世界と関わると、その世界との間に裂け目をつくりだす。それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、
裂け目、世界の無である、という。過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、
「関係」そのものであった。それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち上げてきて、
その通りである。世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目をもたらす、「意識としての人間」をサルトルは
「対自存在」と呼ぶ。異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、自分は、そこに居ない。自分は、後で振り返ったとき、
見入っている自分を対自として見ている内なる我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、
そこは一方の割れた「私」ではなく、裂け目そのものが私である。別に難しいことではないのである。
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05月28日(土)
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