ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3675, 節目どきに ー8
 失敗話、 コンプレックス、 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
 まあ、あまり辛らつにならないように、サラリというまでには時間がかかる。 馬鹿?の餌食になることなど恐れてはならない。
 ≪ そういえば、昨夜、近くにできたSCの地元チェーンのステーキハウスで、赤ワインの注文時に、「デカンタにしてください」と、
  言ったつもりが、何と「デカタンにしてして下さい」と言ってしまった。 家内は噴出したが、店の人は我慢していたようだ。》
  味は値段の割りに美味しい。サエゼリアとは違うが、300グラムのサービス・ステーキセットが1980円。二人で食べたが、これで充分。
  タコのカルパッチョとワインで3000円強の値段なら、駅周辺の居酒屋より安い。サエゼリアなら半額だが! これも「笑われ」か!
   ステーキは、数ヶ月、いや半年に一度でよい。 ところで、ステーキハウスに入ったのは10年ぶりか?   ー つづく
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2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 彼にとっての終戦日は、
昭和20年8月15日でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。
終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の
鈴木と遭遇した時も、フィリッピンの掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思いとどまり、話をしているうちに、
「命令解除の命令書を持ってくれば投降すると」と、ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除と
投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・・ 投降ということは、それは死を覚悟したもの。・・・ところが、
フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。
さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した軍刀の受け取りを拒否しました。そして翌日、マラカニアン宮殿で
会見したマルコス大統領がこう話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦いはもう終わった。
私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地はありません。昭和49年3月11日のその瞬間に
私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。帰国のためにマニラ空港を出発する私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が
日比両国の国歌と「ハッピーバースデー」を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、
心から生きる喜びを噛みしめました。
 ーー
 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの最良に日は、過酷の日々が兵隊生活の
三十数年があればこそである。こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと
思い知る。彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけをもって光り輝いてくる。そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が
心に残るのは如何いうことなのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、「嫌なことも多くあったが、
(字数の関係でカット2,011年04月18日)
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2571, ドル覇権の崩壊 ー4
 2008年04月18日(金)          ー読書日記
 2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。
 そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。
 アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
 価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、
 意識的にお金を使うことにしていた。といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。

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04月18日(月)
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