ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3160, ドバイが債務不履行!
 できるならば、老いの醜さや、病みほけたみじめなおばあちゃんを 『若葉』のおもいでにのこすまいと。
 おばあちゃんのねむっている眼頭に じんわりと涙がわき 枕にころがる。願ひがみなむりとわかってゐるからだ。
 ーー
 ある伯母が晩年に「歳をとることは、無念なこと」と言っていたとを、聞いたことがある。
 
 偶然に去年、老いを取上げていた!
・・・・・・・・・
2006年11月29日(水)
2066, あたりまえなことばかり −17
                         おふぁ  ファ〜
そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。チョッと待てよ!死なないのだから、
そんな準備などする必要はない。が、しかし歳相応にギアを変える必要はある。還暦を過ぎたのだから・・
両親の死に際に、二人とも同居していた。そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、
決して歳をとるのも悪くはないと実感した経験がある。さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。
だからこそ、老いることはまんざらでもないことを知っている。一つだけ「死は存在しない」ことを、
彼らが知らなかったのを除けば。「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。
母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。これである、魂は永遠の学びをしていく。
ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・
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老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。それを否定的に感じてしまうのは、
若さという経験を先にしてしまうからだ。やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いるという
現実を肉体の事実として知ることになる。老いることは死と違って逃れようもない現実である。
生きられてしまった事柄とは、端的にかこである。それは動かせない事実である。
過去は動かせないと知るということは、自分の人生がそのようであったと、それ以外ではあり得なかった、
このとき、人は人生の一回性の秘密に触れているのだが、多くの場合それは、それぞれの感情や感傷によって
覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の伴わない人は幸福である。過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。
なぜ自分の人生はこのようでしかあり得なかったという、存在への問いが、溜息に等しいような老いの時間は哀しい。
生きるということを、物理的肉体の生存と定義するなら、老いていく過程として生きていくのは肉体を失っていく過程である。
しかし、我われの直感は、決してそんなふうに感じてない。老いていくことによって、得ているものはたしかにある。
何かが確実に増えていくと感じるもの、それは何か。精神というより、むしろ魂である。成熟するのは魂である。魂は成熟する。
「ソウル・メイキング」と呼ばれるもの。現代風の言い回しも、ソクラテスふうには「魂の世話」となる。
経験と時間を織り込みながら、魂であるところの人生を織り上げていくと、いった意味合いらしい。
縦糸に時間を、横糸に経験を、織り込みことで織り込まれつつ、魂が自身を織り上げていく行程は、
刻々老いてゆく肉体の老いとは反比例して豊かである。いや、肉体の老いとは、それ自体が新たな経験の
他ならないのだから。それすらも、織り込みつつ色はその深さを増すのではなかろうか。
人生とは、生死の間に存在する時間である。なるほど論理的には、人生には生と死、すなわち一とゼロしか存在しない。 
したがって、時間もまた存在しない。しかし、現実には、人生は一とゼロの間に存在するもの、すなわち無限である。
有と無の間で生成する質である。質は論理でない。論理が指示する、論理自身の影である。
論理的には存在しない死を、しかし現実には存在するとして生きているという、このこと自体が人生の不思議である。
その存在しない死が近づいてくる老いの時間とは、いよいよ玄妙なものになっていくはずである。
かって老いたことのないわれわれにとって、それは未だ知らない質である。老いるという未知の経験、未知の質を、

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11月29日(日)
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