ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2803, イングランド・ツアー W
たとえば、私の(賢い)愛犬だが、彼は仔犬の頃、初めて鏡に「自分」を見出した時、慌ててその裏に囲って調べた。
同じ頃、ステンレスの専用の水飲みで盛んに水を飲んでいる最中、いきなり跳び退いてびっくりしている。
そうして、こわごわ器の中を覗き込んでいる。器の底に、自分の顔が映っているということを、発見したのである。
今では、鏡というものの「意味」をすっかり認識し、時折、何が面自いのか、しげしげと自分の顔を眺めていることがあるし、
私がその後ろで手を振ってみせると、振り返ってニカッと笑う。鏡像認識は、霊長類に限らないようである。

で、ここからが今回の本題すなわち問題なのだが、鏡の中の自分を自分であると認識するというのは、どういうことなのか。
右の話の伝でなら、鏡の中の自分を自分であると認識できるほど知能が高いということになりそうだが、じつを言うと、私は、
鏡の中の自分を自分であると認識できない時がある。いや正確には確かに自分であるはずなのだが、どうもうまく実感できない。
とくに、真剣に思索モードに入っている時など、通りがかりに洗面所などの鏡に顔を見つけ、「コイツは誰だ」
「なんでコイツがこれなのだ」、そういう感じになる。
考えてみてほしい。人はなぜ自分を自分の顔や身体と同一と思っているのか。
なるほど、人は「私は」と言って、自分の鼻の頭を指すけれども、この場合、指しているのが「私」なのだろうか、
指されているのが「私」なのだろうか。それを知ろうとしているのは、では誰なのだろうか。
「私」は、どこに居るのだろうか。鏡の自分を自分と同一と思うのは、じつは未だ進化の途上なのであって、
意識すなわち自己意識というのは、さらに進むと、もう一回ひっくり返って、
「自分」以外を自分だとは思わなくなるのである。確かに、顔や身体は、「自分の」顔や身体ではあるけれども、
それを自分の顔や身体だと思うためには、その先に「自分」が知られているはずだ。で、ここでこそ正等に「自分とは何か」。
これこそが、猿でも犬でもない「人間」の問いなのである。 では「われわれ」とは?
ーーーーーーー

学生時代、何時も部屋の机の前に鏡を置いていた。 あまり見るので、鏡の像の自分が解らなくなることがあった。
この人は誰とさえ思うことがあった。40年近く前の話である。 女性は、恐らく多く経験しているはずである。
現在経験するのは、鏡の先に見るのは死んだ父そのものである。
それも、日ごとおう度、自分から父の顔が前面に出てくる。気持ち悪くさえ、なることがある。
先日も、スナックで父を知る人に全く同じことを言われた。
                    ((´_`○)ノ ノヾィ♪
・・・・・・・・・
2006年12月07日(木)
2074, 寝ずの番
            才八∋ウ_〆(∀`●) 
先週の金曜日の昼休みに、近くのレンタルDVDショップで何気なく「寝ずの番」を借りた。
落語家の大御所の葬式にまつわるコメディーで面白そうであった。
そして事務所に帰ってきて30分もしないうちに義母の死亡の連絡が入った。
その夜は生通夜、翌日が通夜、そしてその翌日が葬式とつづいた。
何かの因縁だろうと、土曜日の納棺・通夜の出発まで時間があったので
DVDを見ることにした。 くしくもそれが通夜の内容で、下ネタのヒットパレードである。
不謹慎と解っていても、2時間近く爆笑であった。!!(^Q^)/゛

「寝ずの番」とは、生通夜に線香を絶やさず故人の思い出を語って、一夜を過ごす風習である。
 この映画は、それを題材に色いろな故人のエピソードを面白おかしく笑い飛ばすストーリーである。
 伊丹十三の「お葬式」や「男はつらいよ」などで、通夜のドラマが演じられている。
 泣きながら頭にあるのは相続の算段をしているのが、シビアで笑いを誘う。

ーその概要といえばー
俳優・津川雅彦が、祖父(牧野省三)、叔父(マキノ 雅弘)と同じ「マキノ」性で映画監督デビューした作品でもあり、
原作は故中島らもである。笑満亭橋鶴という落語家一門の「寝ずの番」の可笑しくも悲しい物語。

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12月07日(日)
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