ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2792.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・1
特別世間的には偉くなくとも、その人のそばにいるとホッとするような人や安心するような人はどこにでもいるものです。
しかし「自分自身になる」ことは、必ずしも世のため人の為になることを含意してはいません。
この言葉には「よいこと・悪いこと」といった枠を越えたもっと根本的な意味があります。
それは、「生きること」そのことを目標にする「生きること」そのことを問題にすると必ず「死ぬこと」
が影のようについてまわる。 前に紹介した禅の坊さんたちの修行の目標は、例えば白隠の「いつかは生死を離るべき」
のように、あるいは道元の,「生をあきらめ死をあきらめるは仏家一大事の因縁なりのように、「生死の区別」そのものを幻と
自覚するようなところにあるようです。最終的にはこうしたことに収斂することは認めながらも、しかし多くの若い人々は
必ずしもつねに,「生」、や「死」そのものに悩んでいるのではなくー
すでに見たように一就職とか結婚、あるいは自分の肉体とか性格など目前の具体的なことに悩んでいるのではないでしょうか。
そこで、次にこうした悩みについて考えてみます。 私はいかなる(いわゆる)些細な悩みであれ、本人がそれを悩むかぎりは、
彼〔女)にとって悩む理由はあると思っております。 いやむしろ、(いわゆる)些細な悩みであればあるほど、
誰もそれを真剣に取り扱ってくれないゆえに、本人の内部でいつまでもくすぶり続けるのです。 では、どうしたらよいか。
ある欠点に悩む人はその欠点を消去ないし改善するのではなく、それをー変な言い方ですがー「伸ばす」ことです。
ーー
著者の事例が良い、「長谷川町子からサザエさんを、美空ひばりから演歌を取ったとしても、
本人が生きたことから見れば些細なことでしかない。」それを死期を悟った時に、本人が一番気づいたはずである。
著者は、これまでの価値観を根本的に揺らぐようなことを平気で述べる。
それだけ生きるということ自体が価値があるということだ。
少し考えれば、当たり前のことだが、その当たり前のことに気づかない!だけである。
*´・ω・)ノ バイ!
・・・・・・・・
2006年11月26日(日)
2063, 親戚の交通事故
一昨日の夜20時過ぎに家内が柏崎の実家の近くに住む妹に電話をしたところ、彼女の連れ添いが交通事故にあったという。
「入院中の義母が、数日前から具合が悪い」という連絡が数日前に義妹から入り、私と見舞いに行く打ち合わせの電話をした時に、
その知らせを聞いた。 「数時間前に亭主が交通事故にあい、病院で手術中」という。
昨日の朝さっそく病院に行き、集中治療室に入っていた本人と話したが、身近の人の重傷の交通事故の人は初めてである。
顔は倍近く腫れあがり、脚は二箇所骨折、来週ふたたび手術という。 首の骨も折れているという。
たまたま、義妹と家族が買い物に出ていたが、頭はしっかりしていて、見舞いのお礼をいっていたが、正視できない姿であった。
オートバイで直進していたところ、交差点で右折の軽自動車と激突。意識不明のまま、救急車で運ばれたという。
タバコも吸わず、酒ものまず、「家業の自転車屋と、社会保険労務士と、貸家、貸し駐車場を経営、真面目を絵に書いたような人。
今まで事故も一切起こしたこともなく性格どおり平穏な人生であった。
人生何が起こるか解らない。来週の手術次第で、どうなるかは今のところ解らないとか。
私が同じ状況なら、誰もが、「ヤツも、やっと罰が当たった!ざまをみろ」と、異口同音言われるだろうし、それも肯けるが・・
交通事故は車を運転している限り、一生のうちに、平均すると重傷の人身事故(軽傷から死亡事故までを均すと)に出合うという。
車や、オートバイで人を殺傷してしまったという話は、何度か聞いたことがあったが、本人が重傷のケースは初めてである。
二十年ほど前に日光街道で‘ありがとう右折’で止まってくれた車の後ろから直進してきたきたオートバイを撥ねたことがあった。
撥ねた瞬間、その場面がスローモーションのように展開したのが脳裏に鮮明に残っている。
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11月26日(水)
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