ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[396054hit]
■2747, 仙台視察の二日間ツアー? に参加して
世間の考え方に無批判的に従っているような人は嫌いだということ。すぐさま反論が出そうですので、さらに説明しますと、
・感受性において、思考において怠惰であって、勤勉でない人、
・「そんなこと考えたこともない」とか「そういう感じ方もあるんですねえ」と言って平然としている人、
・他人の感受性を漠然と自分と同じようなものと決め込んで、それに何の疑いももっていない人、
・他人が何を望んでいるか正確に見きわめずに「こうだ」と思い込んでしまう人です。そのさい、その人の喋る言葉が鍵となる。
・定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。
・自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。
・周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう入。
( 字数の関係上、カットします−2008年10月12日)
・・・・・・・・・
2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想 −10
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。
そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。互いに首輪をつけて紐を握られ、握ってしまったからだ。
「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。自由にはまず「個の確立」が要求されるからだ。
<他者>了解不可能性というが、これは同時に<自己>了解不可能性になる。
「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、それは悩んでいること自体が、無知からきている。
もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、一時的な妄想を抱いているだけのこと。
いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。程度と比較の問題で、誰もが群れなければ
生きてはいけないことも事実・・ それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿である。
孤独とは、他者と一線を画すこと、「自らの分」を他者と画すことである。
和して同ぜずの精神である。 和して同じたとき自由が狭まる。
−−−
第四章 「私」にとって「他者」とは何か−A
ー孤独と自由ー
「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、レヴィナスは「孤独」が発生すると言います。
「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。 その境界の中で芯としての《私》に気づきます。
自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。
このとき《私》は、入り口も窓も無い「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。 これがレヴィナスのいう「孤独」です。
その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。 なに不自由なく暮らすことができます。
しかし、親も子供も、友人も恋人も、そこに「存在しているように」見えるのですが、
それは単なる「映像」でしかありません。彼らは全て<他者>であり、
それは恐らく壁の向こうに側にあるだろうとしか思えません。
境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。
「存在する」ということを「液体である」という状態にたとえるなら、そこには「自由」は存在しません。
なぜなら、それは「全にして一」の存在であり、動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するのでしょうか。
それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。
それは「孤独」の別名でもあります。その時《私》は居場所を決めることができるのです。
つまり、自由とは「個別である」を前提としているということです。
このイメージは、「存在」という海の中で、結晶化した「存在者」が、孤独に浮かんでいるというようなものです。
境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、「内側から」規定するのが「超越確実言明」ということになる。
[5]続きを読む
10月12日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る