ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2689, 他山の石のことながら
(神様だけが真実である、神様だけが真実である…)担ぎ手たちはこの言葉を繰り返し口にする。
こうして冥福を祈られながら、やがて遺体はマニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場に到着する。
聖地ベナレスでもっとも聖なる場所の一つであるマニカルニカー・ガートはガンジス河をのぞみ、街の中心部に位置する。
その歴史は数千年におよぶと伝えられている。河に面して横長に伸び、その広さは五十mx二十mほどであろうか。
焼き場は何もないスペースがあるだけで、多い時にはここで十数体の遺体がいちどきに焼かれる。
ベナレスには二つの有名な火葬場があり、
・一つは街の南にあるハリシュチャンドラ・ガートという火葬場で、
・もう一つが、ガートが連なる河岸のちょうど真中あたりに位置する、このマニカルニカー・ガートである。
運び込まれてきた遺体は、まず、火葬場の中ほどにあるガンジス河へとつながる階段を下り、ガンジスの水に浸される。
そして組み上げられた薪の上に安置され、そのたび油が注がれる。茶毘は伝統的な方法で行われる。
亡くなった人にもっとも近い親族の男性が喪主を務め、基本的に女性は火葬場に立ち入ることはできない。
喪主は、マニカルニカー・ガートにある床屋で髪の毛やひげをそり、
白い装束を身に付け身を清めた後、自分の父親や母親の亡骸に最初の火を自らの手で灯すのだ。
遺体が燃え尽きるまでの時間は、おおよそ二時間。
その間遺族は、焼かれて行く遺体から五、六メートルほど離れた場所で肉体が消滅して行く姿をじっと見守り続ける。
目の前にはガンジス河が流れ、煙は何物にも遮られることなく空へと昇って行く。
聞こえてくるのは薪がはぜる音、人びとのささやかな声、そして、遺体がまた運び込まれたことを告げる
「ラーム・ナーム・サティヤ・へーレ」という声である。
しかし、なぜこの街には、インド各地から遺体が運び込まれてくるのだろうか。
この疑問に対して誰もが"何故、そんなわかりきったことを聞くのだというような顔をして
「この街で茶毘に付されれば必ず天界にゆける。そう信じているからだ」とこたえてくれた。
ヒンドゥー教では、人生は「生老病死」といった苦しみに満ちていると考えられ、そして生まれ変わるたびに、
その苦しみを味わわなければならないとされている。この考え方は、仏教にも影響を与えた「輪廻」という思想である。
この「輪廻」の輪から抜け出ない限り魂の平安は未来永劫に訪れない。 こうした考えを信じる人びとにとって、
ベナレスは生きることの苦しみから抜け出させてくれる救いの場所なのである。
遺体が焼かれた後、遺灰は目の前のガンジス河に流される。最後に喪主の手で残された遺灰にガンジス河の水がかけられる。
こうして死者との別れの儀式は終わる。
ーーーー
以上のような文章と、写真が半々位で本が成り立っている。
しかし、読んでいても暗さがない。いや、あるが、その先に明るさを感じるのである。
本の写真に死ぬ直前の人や、死んだ人の顔が次から次と出てきても、何故か静かに見ることができるのである。
死を、ことさら大げさに見ることの方が寧ろおかしいのである。
つづく
・・・・・・
2006年08月15日(火)
1960, 人生を物語るとは? −2
(。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
「自分の人生の意味づけ」が、自分の物語の作成ということになる。
意味づけで、必死に内面を支えようとする心の自浄作業である。
意味とは価値のことである。自分の価値を明確にして、それに従って生きることが
意味ある人生であり、価値実現のプロセスが物語になる。
大人が子供に「大きくなったら何になる?」と、質問する光景はいまも昔も変わらないが、
これは既に大人が子供に人生の物語を聞いていることになる。子供の方は、何を言えば目前の大人が喜ぶかを、
瞬時判断して答える。従って、その質問自体が洗脳作業になっている。
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08月15日(金)
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