ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2659, コールド・リーディング
2295, 中島義道の「池田晶子」追悼文 -1
・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕
自ら書いているように奇人変人の哲学者の中島義道が、池田晶子と知り合いであり、
彼女への追悼文を、ある月刊誌の中で見つけて驚いてしまった。
この随想日記も中島は何回か取りあげてきたが、その奇人ぶりには読んでいて、
あきれていた。唯我独尊で、ただへ理屈?を並べ立てている姿、誰かに似ている。
かた方の変人の雄の池田と知り合いで、その追悼文を書いていたとは!
中島にしては、前半はシンミリとした感じであった。何か自分に劣らない奇人の死に戸惑っているようだった。
中島は池田を哲学者と認めてないようで、哲学者でも哲学研究者でもなく、
著述業として切り捨てているところが、彼らしい。
昨年から池田晶子にはまってしまっているが、亡くなったことで更に、
もう一歩踏み込んでいる。とにかく根源的で、純粋であるのがよい。
その彼女の姿を中島がどの様に見ていたかを知るのは面白くないわけがない。
哲学者の間では彼女は無視された存在であり、著述家としてしか、見られてなかったようだ。
哲学者にとっては哲学用語を一切使わないのは、それだけで、相手にされなかったのだろう。
初心者向けに絞って、哲学みたいな文を書いている女とみられていたようだ。
前半は、中島が見た池田の哲学学者仲間としての心象。
後半は、中島独特の批判で構成されている。
まずは、前半の中島の彼女の心象から・・・
ー 月刊・新潮45−2007年・5月号ーより P-152
ーー
池田晶子さんが亡くなった。四十六歳の若さである。
新聞報道は三月二日の読売新聞が最初だが、私は翌三日の朝日新聞社会面で知った。
昨年末、新潮社の編集者と忘年会と称して呑んだとき、彼女が癌を患っていることは
聞かされていた。その口ぶりから、末期ということはわかったが、
こんなに阜く逝くとは思わなかった。ショックはないと自分に言いきかせていたが、
その日大学にいても彼女のことばかりを考えて過ごした。
いままで意図的に避けてきたが、ある種の独特の形で哲学に携わった彼女に対する
自分の気持ち(評価)をごまかすことなく語ってみようと思う。
池田さんとは四、五回会っている。はじめは十五年以上も前のことであるが、
(いま慶応大学の教授である)斎藤慶典さんが「おもしろいことを書く人が後輩にいるから」
と「大森先生を囲む会(略して「大森会」)」に連れてきたのだ。
池田さんは例会の日に、教室の入り口でそっとお辞儀をして入ってきた。
そのころ彼女は三十歳位であり、とびきり美人であることは誰の眼にも明らかだったが、
そこにいた参加者たちはまったく無視していた。
水玉の(?)袖が長めの白っぽいワンピースを着ていたように記憶している。
池田さんは、当時まったく哲学仲間のあいだでは知られておらず、
まだ本を二冊書いた程度であったから、世間的には、ほぼ無名であった。
そこには、永井均、野矢羨樹、飯田隆、丹治個治、・・・など、
いまや日本哲学界を担う人々が決集していたが、当時彼らは哲学界という
狭い世界の中では評価されていたが、誰も世間的には有名ではなかった。
永井さんが有名になったのは『〈子ども〉のための哲学』あたりからであり、
それが講談社のPR誌『本』に掲載されていたとろから評判であった。
そして、一九九五年の夏に『ソフィーの世界」が大ペストセラーになると、
相前後して出版界は「哲学ブーム」という軽薄な掛け声と共もに浮かれ出し、
池田さんの『帰ってきたソクラテス」(新潮杜)、
永井さんの『ウィトゲンシュタイン入門」(ちくま新書)、
木田元さんの「反哲学史」など、それぞれ部数を仲ぱした。・・・(中略)
池田さんは、例会のあと渋谷での呑み会にも時々参加した。
何を話したかすっかり忘れたが、彼女としぼらく話し込んでいると、
丹治君がまん前に座り込んで、しげしげと二人を見比べ
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07月16日(水)
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