ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2646, 世界の株価ー上半期の騰落率
左右されるということである。日本は逆で、家庭の文化資本によるより、学校文化によって
文化資本が形成される度合いが強い。とすれば、日本における文化資本形成における
せっかくの学校効果を、近年の下流化が根こそぎ破壊されていることになる。
負け犬キャンパス文化の上限が中堅大学にせりあがり、彼らはこうした文化に浸っているので、
「これでいいのだ」文化によって、負け犬の道を意識しない。こうした事態ははなはだ深刻である。
−−−
以上であるが、大学も20対80から、5対95の分断化が進んでいる。
そこまで、日本は絶望的な状況なのか! 私立では慶応だけが抜きんじて、早稲田以下に差を
つけてしまったというが、そこでも同じ現象が生じているのか?それとも、ブランド戦略の差なのか?
それと、現在短大を含めた大学生が51・5l、高専・専門校生が25lというのも、
知ってはいたが、改めて実態を確認すると問題の深さに驚いてしまう。
´・ω・]ノヂャァネッ
・・・・・・・
2006年07月02日(日)
1916, スペイン画家・堀越千秋ー7
才八∋ウ_〆(∀`●)
スペイン七千夜一夜 集英社文庫 ー読書日記
スペインといえば、やはり闘牛である。何回か闘牛について書いてきたが、
堀越氏の闘牛の見方が独特の視点である。「俺と一緒にするな!」という著者の声が聞こえそうだが!
一回目は衝撃的だったが二回目に見たときは、観衆と一緒に興奮して、面白いと思えるようになった。
早くいえば、寄ってたかって一頭の牛を殺すのを楽しむショーである。
が、慣れてくると、それが恐ろしいことに、面白くなるのだ。
現在は、闘牛士と戦う前に、槍で刺して弱らせる。そうしないと殺される確率が高くなるからだ。
初め観たときに誰もが思う「卑怯ではないか!」と。しかし、ここはスペイン!
それが現地の文化?の一つなら一緒に楽しむこと、と決め込み、何度か自分の良心に言い聞かせて・・・
まずは、その一部を抜粋してみた。
ー
スペイン名物、闘牛とは、そもそもそんな主客転倒の様式化といってよい。
牛は、平和な原野の牧場からある日突然連れさられる。
暗闇に閉じ込められて、いきなりドアが開くとまぶしい闘牛場だ。
怒ってやみ雲にも角を振り回しているうちに、あちこち槍だの銛だのに
突き刺されて、最後に長剣を刺されて死ぬ。 何が何だかわからない。
一方、客の方は、やれあの牛は闘士がない、いや勇敢だ、角を左に回す癖があって
よくない。いや口を結んだままで強い、右足がゆわい、いやダメな牛だ、
いや素晴らしい牛だ、これこそ牛の中の牛だ、等々、勝手なことを言う。
そして、血の泡吹いて息絶えた牛が、4頭のラバに引かれて退場をするところを、
拍手をしたり、口笛をふいて避難したりする。人間どもの勝手もいいところだ。牛の都合など一切、考えない。
人間の都合と審美観のみを一方的に牛に押し付ける。元々人間対動物の関係は、そういった一方的なものだが。
牛の都合は、実は、無視されているのではない。
スペインの人間によって、主客転倒や主客合一の甘露をかけられて、つまり人間にとって良い牛は、
恐ろしい野生の黒牛でもないし、敵でもない。美しい、雄雄しい、勇気ある、気高い「自分」なのである。
強い牛は自分の美点の反映なのである。勿論こっちの自分は、牛がいくら刺されても痛くもかゆくもない。
牛の中に一瞬、自分の美しい反映を認めただけなのだから、
牛がばたりと死んでしまえば、あーあと葉巻をくわえて背伸びするだけだ。
こういう便利で自分勝手で、自由にあっちへ行ったりこっちへ来たり、一瞬のうちに都合の良いほうへ
乗り移る「自分」というものを、日常的に心の中に飼っておかないと、闘牛という、不思議な審美観によって
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07月02日(水)
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