ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2447, 四四太郎の霊日記 ー12
    奇跡をおこしていなければならない。
   [奇跡]の定義が、[科学的に説明不能」であること、それを審査するために、
    バチカンにも専門の科学者がいる。そこで、説明不可能といわれたものが、
   [本物]の奇跡であるか否か、高僧達が判断を下すそうだ。

私はある種感嘆をおぼえた。科学的に不可能であるということが、
「すなわち」価値である世界があるとは、盲点を突かれる思いであった。
彼らが[奇跡]を価値とするのは、イエス・キリストが病人を癒したとか、
死人を生き返らせたとか、聖書に記載されているからだろう。
それで、そういう[奇跡的]力を有する人が宗教的に優れた人ということになるのだろう。

   しかし、当のキリストは、この世の命を命と思うな、
   現世の価値に執着するなと、繰り返して説いている。
   永遠なるものは、その価値は、あなたたち自身の内にあると。
 宗教の本質とは、現世的価値に対して永遠的価値を提示することにあるのではなかろうか。

癒しや復活など現世的としての奇跡的出来事は、宗教の本来無関係のはずである。
ゆえに、宗教が奇跡それ自体を価値とするなら、すでに話は転倒している。
宗教など、早い話が、永遠のふりをしたしょせんは現世利益じゃないかと言われても、
仕方がないのである。第一、科学により説明不可能ということが、何で奇跡ということなのか。
逆に科学により説明可能なら、奇跡は奇跡でなくなるというのか。ここに根本的な勘違いがある。

    科学というのは、そのとおり、説明のための一方法である。
    何を説明するかといえば、言うまでもなく、自然である。
    自然の奇跡である。花が咲くこと、陽が昇ること、この宇宙が
    このように存在することの奇跡である。ゆえに、科学がいかに説明しても、
    このこと自体の奇跡が、軌跡でなくなるわけではないのである。
    逆に、このこと自体の奇跡はいかにしても説明不可能だからこそ、人は、
    [神]という発想をもったはずなのである。

したがって、科学により説明不可能なことのみを奇跡とするような宗教は、
科学の優位に立っているいるつもりで、じつは科学に従属しているのである。
神の奇跡なんぞ、本当に感じているわけではないのである。
そういう人々が、現世利益、現世的ヒエラルキーの追求にかまけることになる。
本当に宗教的な人、本当に神の奇跡を感じている人は何もかも奇跡的なことのはずだが。
だから、とりたてて何かだけ奇跡的だ、価値なのだと、騒ぎ立てるはずがない。
  ーーー
以上であるが、[ゴッドファーザー]に教皇を暗殺する場面が出てくるが、
教皇といえ、あの程度の男でしかない?という裏面を辛辣に表現していた。
「奇跡」の云々を信者が求めているのなら、それを演じて見せるのも
必要であるということか。*** Ψ( `▽´ )Ψケケケケ♪
               (~Q~;) ネム〜〜
・・・・・・・・・
2005年12月16日(金)
1718, お金の現実          
 オハ ☆:*:・★(o≧□≦)o☆・*:..。o○☆*゚オォォォーーーハヨ!!       
          −読書日記  岡本 吏郎著            
             ma!~~匸Pヽ(・ω・`)コーヒーデモ
これまで著者の本は二冊読んでいるが、
 ・中小企業を経営しているなら、一億の現金を個人名義で持ちなさい。
  ・ヤップ島のフェイという石で出来たお金の話以外、さしたる記憶が残っていない。
    今年の4月に新らしく刊行されて本屋で見たが買う気にならなかった。
     ところが先日図書館で見つけて読んだところ、なかなか面白い。

 ほとんどのポイントが最後の章の第五章・この本の結論に集約されていた。
ーそれを更に私流に要約すると、
お金の語源から、その意味するところは
「測定」「警告」「狂気」「生け贄」「循環」というキーワードである。
「測定」は、対象の価値を測定するもの「警告」は、お金からの警告である。

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12月16日(日)
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