ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2432, 田淵節也 −「私の履歴書」最終日
それが精神科であり、セラピーの役割となる。それぞれの立場・見方も必要である。
以前は、癒しなどの言葉は無かった。精神科があってもセラピーなどあったのだろか。
手相などの占いが、昔流のセラピーの役割をしていたのだろう。
私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
このHPなど、癒しそのものである。
最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。
それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。
ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。
自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、
癒しなどという言葉は、あまりにも甘く聞こえてくる。
自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできはしない。
そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
それも大事なことである。それをしなかった為、精神病になる糸口になるからである。
まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・
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どうすれば癒されるのか −@
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癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、
具体性に欠ける。ストレス解消のためカラオケに行く。
コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。
何となくふわふわと浮わついた「雰囲気気」、それが当の癒しであると
するならば何となく納得する。
だとしたら、癒されるべき傷などどこにも無かったか、その程度のものである。
具体的なものが見えないから、漠然とした物欲しげなそこへ、
各種のグッズやセラピーが商品として流通するという構図である。
しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、
主語を支点にこれを能動態に変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。
「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、自分で自分を癒す能動的行為
であると言うこともできる。
自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。
傷とは何であろうか。傷ついているのは自分である。
そう思っているのは誰だろうか。「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、
日常レベルの予測をはるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。
それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。
「私とは何か」 −>「何が私であるのか」
「心とは何であるか」−>「何が心であるか」
「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。
「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在していることを
前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。
しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な存在ではない。
本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、
もしくは表象させるそのような命名が、多くの誤解を生じさせている。
トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。 心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。
「心の外」とは、どこを指すのであろうか。
「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、
「私」が身体であるという一方の強力な錯誤と手を組んで、
「私の心は体の内側に存在する」、その主観である。
そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、
という錯誤の世界像として定着する。
したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。
トラウマ理論とは、あるいは主客二元の世界観に典型的な、短絡的解釈ではないだろうか。
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12月01日(土)
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