ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2424, 四四太郎の日記 −9
面白そうだが・・せめて極上のモルヒネで最高の気分で
**** Ψ( `▽´ )Ψケケケケ♪ ココハドコ
(/∀)/アタシハダアレ?
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他者の死はなぜ悲しいのかー@
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死は観念である。
人が、自分の死をいう観念を、現実のものと思い込むに至る経過について
考えてみたい。 死ぬことを知らない人は死なない。
レトリックではない。
「意識そのもの」とは、「存在すること」に他ならないからである。
「存在しないこと」としての死は、意識そのものには存在しない。
「存在しないこと」という観念が存在するのでなくては、
人には、死ぬということはないのである。
言葉の抽象度が高すぎるので、いくらか具体的に考えてみたい。
生まれて初めて人の死に出合うのは、誰か他者の死である。
自分の死に出合うことはありえないから、人は他者の死に出合う以外ない。
おそらく、幼少の頃、誰か身近の人の死を見る。 「死を、見る」
( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
しかし、ここでは細心の注意をはらって考えたい。
人が死を見るのは「死体」であって、決して「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。
見えるのは物質としての「死体」なのである。
しかし、多くの人は、この両者を混同する。
死体を見たことによって、死を見たと思うのである。 (~Q^(^┰^;)ゞ
当然である。「存在しないもの」としての死が、
存在するものとして見つかるわけがない。
こう考えると、自分の死だけでなく、他者の「死」もまた「存在しない」。
そもそも存在しない死に対し「死」と名づけたことにより、
死は存在していることになったというのが真相なのである。
死(0_0)〜† 死っし "ゞ(`')
死とは言葉以外の何ものでもないのである。
死が存在すると信じ、死への恐怖に追われて生きてきた我われにとって、
こんな、その意味で馬鹿げた事態は納得できないかもしれない。
しかし、「無」を言語化した刹那、あたかもそれでは、
無が存在するかのようになるではないか!
我われの日常は、事の初めから、存在と言語の共犯的奸計に巻き込まれて進行している。
ふとそのことに気づき、存在と言語の外へ出る道はないことも悟った時、
逆に人はそれを自覚的に生きようと構えを変えるはずである。
わかりきったと思い込んでいた生と死の日常が、いかに摩訶不思議なものであったか。
その意味でそれは新たな誕生、生の再生になるのではなかろうか。
(*⌒ヮ⌒*)ゞ バイ!
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2005年11月23日(水)
1695, 辺境へ −1 ー 読書日記
素人の身として辺境へは、ツアーでしかいけないが、
「辺境・秘境」をキーワードにして、この十数年近く
アフリカ、南米、シルクロードなどを家内と共に行ってきた。┐(´ー`)┌
図書館にあった、「辺境へ」−大谷映芳著ーはもう5~6回以上借りてきて読んだ。
そして、ついにインターネットで新・中古本だが、買ってしまった。
写真も、文章も体験をそのまま書いてあるので、心に直に迫ってくる。
この本で、著者が一番思いの深いの7ヶ所を紹介している。
チベット・ヒマラヤを除いた5ヶ所訪れているので、
私にとって非常に魅力のある内容で、何回読んでも飽きることはない。
((
匚P
まず著者の大谷映芳の「内容紹介文」をコピーしてみる。
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ー「ニュースステーション」で、高視聴率を獲得した“秘境ドキュメント”。
ブータン、ギアナ高地、ドルポ、アフリカ大陸グレート・リフト・バレーなど、
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11月23日(金)
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