ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2421, 閑話小題
   考えてみれば、観念でない現実の死を考えるとする正にそのことによって、
   死は常に観念となるという事実。
   観念でない現実の死など、観念としてしか存在しない。

しかし人は死ぬではないか、と人はいう。確かに現実に人は死ぬ。
しかし、死ぬのは常に他人であるという事実について考えてみる。
他人の死は自分の死ではない、そこにも自分の死は、存在してない。
人は、他人が死ぬのを見て、死を観念として対象化し、それを自分に類推して、
自分の死が現実に存在すると、思い込んでいるに過ぎない。ここでもあくまで観念でしかない。
笑うべきことだが、自分の死を考えようとして与えられている思考の真空、
自分がいないとということを、考えている当の自分に、
どうして考えることができるのだろうか!かくして、哲学が誕生することになる。

    精神は思考することによって、生物体としての死の恐怖、その錯覚を看破し得る、
    だから、考えることこそが、善く生きるということなのだ。
    おそらく、生物に存在するのは生存本能であって、死の恐怖ではない。
    生きようとするために死を避けるのであって、死を避けるために生きている
    わけではない。人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、
    自ら課した観念による錯覚のためで、人間は動物のように、
    十全には生きてはいない。それ自体で転倒している死への恐怖を逆手に取り、
    再び大きく転倒させるものが宗教である。
    あるいは、宗教は、考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯の
    そこに、「死後」の絵を画く。あたかもそれが、生の続きのように。

しかし、「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、
文字通り観念としかあり得ないのは自明なことだ。
死が観念なら死後も観念である。ふと気づけば当たり前のことである。
人が死と対になった「死後」という観念から離れられないのは、
真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に流れるものという、
時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは、
人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象である。
人は、物理的肉体として生まれ、育ち、次第に老いて、次に死ぬ。
時間は、そのような物理的現在、物理的瞬間の重なりとして表象されているのである。

   しかし、この時間表象によっては、決して表象されないときがある。
   それが、それらを表象している正にこの現在、時間は一直線に前方に流れるものだと
   表象しているこの瞬間である。「瞬間」など、どこにもない。捉えられるものではない。
   なぜなら物質ではないからだ。すると、時間を物質によって表象し、
   肉体の生死に等しく一直線に前方へ流れる
   ものとのみ思うのは、誤りであることになる。
   これは、自分の死はあり得ないという例の事実を裏から支持する。
   物理的時間のうちに存在しない自分とは、物理的肉体ではない。
   すなわち、自分は生きて死ぬこの肉体ではないということに他ならないからである。

死なない存在に死後はない。宗教が「死後」に言及することによって多く誤るのは、
あたかもそれが時間的前後であるように聞こえてしまうことによる。
「死後、永遠の生命を得る」。しかし、「永遠」とは「死なない」ということ以外の
いかなる意味であり得ようか。 永遠が死後にあるとは、既に破綻している。
我われの言語の構造が、物理的時間とは異なる時間のありように言及することを拒んでいる。
宗教が誤るのは、一直線に前方に流れ、死へ崩落していくと思われているこの人生に、
「意味」を語ろうとしているところにあるだろう。
 −−
  自分は生きて死ぬこの肉体ではない、というが・・・
  まあ、わからないでよいが、しかし考え続ける必要はある。

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11月20日(火)
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