ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2420, サブプライム問題 ー1
内語は、声を出すと独り言になるが、
独り旅で内語というカタチでブツブツ言っている自分に気づくことがある。
毎朝のウォーキングも内語が活発化している。
内語といえば、この随想日記の同月同日の数年分を読み直しているとき、
そうか、そうか、と読みながら独り発語しているのは内語の究極と思える。
まあ、このHPも内語そのものと言えよう。
そう、今年の3月から始めたモーニング・ページ(起きざまに白紙のノートに
思いつくまま書き出す)も、自己対話の形式の内語である。
この良さは、頭で考えていることは、ほぼ些細な事と鳥瞰できることだ。
まあ、砂金がたまに見つかるのが・・・
この自己対話で質問者と回答者の対立が深まると、分裂症状になるが。
近くの居酒屋の親父、厨房で頭に浮かんだまま声に出している。
私のことを一度「あいつ、俺には合わないんだよな〜」と、言っていたか・・
ブログなど、内語だった地声?を、そのまま公開することである。
内語は考えるほど面白い形式だが・・
ー孤独とは苦しいものなのか −B
*「内語」と「孤独」について
「思う」とはどういうことだろうか。
何かを思うとき、思っているのは自分だが、思われているのは自分ではない。
これは、よくよく不思議なことでなかろうか。
「思う」というこれだけの出来事で、自他の区別はまったく不明瞭なのである。
あるいは逆に、「思う」ことによって、自他がそこで出合うのである。
孤独なもの思いにおいてこそ、人は世界へと開かれることができるという逆説、
孤独な思索者の内なる饗宴である。
「内語」という現象にそれは極まるだろう。
自分が自分に語りかけると、普通にわれわれは思っている。
しかし、自分が自分に語りかけるとは、一体どういうことであろうか。
もしも自分が自分として完結しているば、そこに語りかけるという行為は
発生しないはずである。語りかけるとは、問い尋ねる、確認する、疑念を発する、
同意を求める等、本来的に他者へと向けられる行為である。
しかし、語りかけているそこには、目に見える他者など、存在していない。
すると、そこに語りかけているのは誰だろうか。なるほど「自分に」だと言うしかない。
だからこそ、他者として、語りかけ語りかけられているのは自分とは、
自分にとって自分なのだろうか、他者なのだろうかという問いが、
いよいよ悩ましいものとして立ち上がることになる。
自分である、他者であるということは、自分であるという正にそのことにおいて、
いかにしても自明のことではあり得ないのだが、この場面において人は、
目に見えるもののみ信じすぎる。
他者とは目に見えるその個人であり、自分もまた目に見えるこの個人であると
思い込んでいるのである。そして、個人と個人はしょせん個人である。
ここで個人は孤独であると嘆くことにもなるが、じつは人は孤独であることなど
できはしないのだ。厳密をきするほど、自他の境は溶解し、何が自分であり、
何が他者であるとは言えなくなるのである。この奇妙で当たり前の事実に気づくのに、
内省する、自己観察するという習慣以外ないだろう。
個人主義は科学的世界観なしにはあり得なかった。しかし、それとてこの
数百年のことである。それ以前は、われわれにとって自分はそれほど自明のことで
なかった。自分であるということは、そのことだけで、何か神々や霊魂めいたものと
重なっていたことを知っていたからである。
われわれ日常とは、心の日常である。あらためて思うと、何と当たり前のことである。
そして、心は「人間」ではない。愛着や憎悪や嫉妬、それ自体が「人間である」とは
無意味であろう。「心のはたらき」は、人間ではない。それは「何」の働きなのだろうか。
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11月19日(月)
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