ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2414, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて −2
    「私」については、知れば知るほど面白い。
   ソクラテスの「汝自身を知れ」ではないが、汝が居てはじめて「私」が存在する。
   複数の汝によって、「私」は社会の存在者として表出する。                                                     
 V 生きているとはどういうことか −A

科学的世界観時代のドクマとして、自分は肉体であると思い込むに至る。
しかし自分は肉体であるとは、どういうことなのか。
それを極言すれば、自分とは脳であると、現代人は9割がたの人が疑ってない。
「私」という言葉で、精神、感情、心とかいったことも含めるんでしょうが、
精神的なことも脳波を測定したりしていますが、「私]]は果して脳なのでしょうか。
脳には触れることができるとしても、考えそのものには触れることはできません。
感情だって、同じである。

    「私」という存在にもっとも驚いたのは近代哲学の
    デカルトである。なんだこれは。考えている「これ」です。
    「精神」「コギト」と彼は言いましたが、非物質の精神の存在、コギト。
    彼はそこで失敗したのは、それに「私」という名を持ってきてしまったことだ。
    そこに「私という名を持ってくると、どうもそこに私が存在するようになる。
    問いとしてあべこべになってしまう。
    つまり考えている「これ」に「私」という名前を当てたに過ぎないのであって、
   「私」というものが予めてあるのではない。何かにあてられた一人称代名詞。
    これも名前に過ぎないということに気がつきます。
    この一人称代名詞「私」は一体、何を代名しているのか。

最近「自分探し」というのが巷で流行っているそうですが、
これは方向としてあべこべで「私」という何かが何処かに在ると思っている。
たぶんそれは社会的なアイデンティテーが欲しいということなんでしょうが。
それは正しい問い方ではない。「私なんてものは、無いんですから。
無いにもかかわらず、考えている何かがある。それは何か、ですから。

    「何が私という名前で呼ばれているか」これが哲学的な問いです。
    どうも「私」は物質ではないらしい。非物質。
    それと「私」は死なない。 死が無いから、「死後」は問えない。
    死後が在るか無いかという問いの間違いは、死が存在するとして時間が
    前方に直線的に流れているという誤った表象に基づきます。
    この誤りに気がつけば、すべては、今ここにすべて存在する、ということに
    必ず気がつきます。「私」が死なないという意味であって、
    死後にも生きているということではない。
    なぜだか、全ては今ここに存在すると知っているこの何者かは誰なのか、
    これが正当な謎として立ち現れてくる。

このような不思議な存在に対して、「魂」と言いたくなる。
しかし魂という言葉はつかい方が非常に難しくなる。
何か実体があるような、そういうものが生まれかわりするようなイメージに
なりがちです。実体的イメージ。しかし、すべてが今ここに存在しているのだから、
前世来世を問うのはナンセンスです。だからと言ってそういうものが無いというものでもない。

    とはいっても、「私は私である」「私は個人である」とは、
    「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの思い込みである。    
    ーーー
 
ー死後が在るか無いかという問いの間違いは、死が存在するとして時間が
 前方に直線的に流れているという誤った表象に基づきます。ー
 ここがポイントではないか?
 「死があると信じて時間が直線的に流れている」と、思ってきたが
 少なくとも私は死なないのである。「すべては、今ここに存在する」と、
 「死は無い」とが、 深く結びついているのである。
 「永遠の今ここ、そして永遠の、《私》」ということか・・

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11月12日(月)
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