ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2413, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて −1
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2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり −4
b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
せっかく地球に生まれたからには、「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」
シンプルに言えば、これに尽きる。
彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、
人は言語を所有するために、存在するしかない存在についての意味や目的を
問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有していないので、
ただ生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、
十全には生きられない。問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、
問わざるをえない。『何のために生きるのか』」
生を考えるとき、その対極にある『死』を知らなくてはならない。
しかし、死など解るはずがない。
−−
「あたりまえなことばかり」
V 生きているとはどういうことか −@
「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。
生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!
と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。
自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。
そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
無は存在しない。存在しか存在しない。
したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
そこで言われている無というものは無い。
すなわち死はない、ということになります。
にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。
その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。でも、死ぬのは常に他人です。
だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死しか経験できない。
それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。
生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。
つまり、動いているものを生と呼び、動かないものを死と名づけているに過ぎないと。
生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。
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11月11日(日)
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