ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2383, 私の嫌いな10の人びと −2
信条などは、絶対的確信にしたいため自分で決め付けているに過ぎない。
そして、それに反することを見てみないふりをする。
それで、もやもやしたものが何時もついて回る。
生活信条など、その程度のものでしかないのである。
それさえない人が多いのが世間様、惰性で流れているにすぎないのである。
要は、何処で見切るかである。
・・・・・・・・・
2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想 −10
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。
過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。
そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。
互いに首輪をつけて紐を握られ、握ってしまったからだ。
「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。
自由にはまず「個の確立」が要求されるからだ。
<他者>了解不可能性というが、これは同時に<自己>了解不可能性になる。
「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、
それは悩んでいること自体が、無知からきている。
もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、
一時的な妄想を抱いているだけのこと。
いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。
程度と比較の問題で、誰もが群れなければ生きてはいけないことも事実・・
それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿である。
孤独とは、他者と一線を画すこと、「自らの分」を他者と画すことである。
和して同ぜずの精神である。 和して同じたとき自由が狭まる。
−−−
第四章 「私」にとって「他者」とは何か−A
ー孤独と自由ー
「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、
レヴィナスは、まず「孤独」が発生すると言います。
「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。
その境界の中で芯としての《私》に気づきます。
自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、
それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。
このとき《私》は、入り口も窓も無い「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。
これがレヴィナスのいう「孤独」です。
その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。
なに不自由なく暮らすことができます。しかし、親も子供も、友人も恋人も、
そこに「存在しているように」見えるのですが、
それは単なる「映像」でしかありません。彼らは全て<他者>であり、
それは恐らく壁の向こうに側にあるだろうとしか思えません。
境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。
「存在する」ということを「液体である」という状態にたとえるなら、
そこには「自由」は存在しません。なぜなら、それは「全にして一」の存在であり、
動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するのでしょうか。
それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。
それは「孤独」の別名でもあります。その時《私》は居場所を決めることができるのです。
つまり、自由とは「個別である」を前提としているということです。
このイメージは、「存在」という海の中で、結晶化した「存在者」が、
孤独に浮かんでいるというようなものです。
境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、
「内側から」規定するのが「超越確実言明」ということになる。
この境界の範囲が「自我の範囲」であり、それを内側から支える行動
(言語行為)によって維持されています。
ー《私》による「境界」の維持ー
境界は《私》によって維持される必要があります。
《私》は「正しい居場所」を求めてこの世界を移動しますが、そのとき境界は、
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10月12日(金)
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