ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2381, 下流社会 第二章
    《私》は、他者の「声」に触発されて発生する「私の核」である。
    それがいつの間にか、私の境界を守るようになる。
    それが孤独を発生させ、「固別であること」の自由を得ることになる。
    
その《私》は「他者」を自分の都合の良いように認識する、その姿が「他人」となる。
「他人」の姿は、《私》が自分の物語のためにつくり上げた「他者」の像でしかないのか?
そう考えると、全くその通りでしかない!

ー以下は、要点を抜粋した内容であるー
 ーーー
第四章 「私」にとって「他者」とは何か −@

この章では、私たちの存在の核である、《私》の成り立ちを
明らかにすることによって、<私><身体>を所有することを考えていく。
他者と他人は異なる概念であるということに注意すること。
とは何か」ということから考えはじめる。

    ところで、<物語>と<世界>を所有した人間は、その物語を遂行する際や、
    世界認識において、と対立します。
    とは、異なる物語を生きる者たちの集合体なので、そこに行き違いが発生する。
    行き違いを調整して同じものを目指そうとする必要がありません。
    の存在を想定することによって、
    を所有することができるのです。

ーレヴィナスの<他者>−
*実存することとは他者を考える前段階として、
「存在する」ということの意味から考えると・・
レヴィナスは、「何もない」というとき、「何もない」という状態が
「存在している」必要があると考える。これは難しい概念だが、
「あるーない」というのは、判定者が存在して初めて語られうる
「情報」であると考えれば納得のいくことです。
「あるーない」というとき、必ずそこには「あるーない」のいずれかであるを
判定する営みが必要ということです。

    一般に情報は、情報として純粋・単独で存在することはできず、
    それを受け取り、了解する者がいて初めて成立する概念であると考えるのが普通です。
    「剥き出しの『ある』」「剥き出しの『ない』」を考えようということです。
    「ある」は「ある」という状態でのみで(判定者を必要とせず)
    「ない」は「ない」という状態でのみで完結して「存在している」と考えるわけです。
    このような状態での「ある」を、レヴィナスは「実存すること」と呼びます。
    それは、実体をもたない、単なる「存在」です。つまりレヴィナスは「動詞」
    (実在する)によって表現される「何か」を考えたわけです。
    この何かは「もの」でも、「存在『者』」でもありません。
    『情報と物質』という二つの状態を考えることで描像をえることができる。
    つまり「存在」するとは情報としての状態であり、「存在者」は物質としての状態です。

ー位相転換ー

「存在する」というように、動詞のみで表現される「何か」
(実体を持たない何か)は、「何らかの原因・理由」によって実体を持つようになる。
この変化を、レヴィナスは「実詞化」もしくは「位相転換」と呼びます。

    ここでは「相転移」にたとえます。
    水という物質は、気体、液体、固体の三つの相がありますが、
    同じ物質でありながら、その性格はかなり違います。
    こうした「気体が液体になる」「液体が個体になる」というような、
   「相」の間の移動を「相転移」と呼ぶ。
   「物質」を「情報が相転移したもの」であると考えれば、
    レヴィナスの概念は現代の科学の文脈においても真実味を帯びてきます。

ー他者によって「境界」が発生するー
 
オーストリア出身の哲学者のマルチィン・ブーバーは、
『我と汝』の中で、「私ーそれ」という関係と、
「私ーあなた」という関係の二つがあることを指摘しています。
【この中の一節】
「<われ>はそれ自体では存在していない。
根源語<われーなんじ>の<われ>と、

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10月10日(水)
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