ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2376, 人は60歳で何をしたか −4
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こういう文章を読むと、宗教の偉大な力を感じとることが出来る。
それと、自分の小さな世界の歪な姿がリアルに感じとることが出来る。
こういう人は、60歳の時の心は安定した安らぎで満ちていて当然である。
明日あたりに送ってくるはずである。
歳を重ねると見えなかったモノゴトが、雲の彼方から一つずつ現れてくるようだ。
ヾ(=・ω・=)o☆ばいばい!
・・・・・・・・・
2006年10月05日(木)
2011、「私」のための現代思想 −8
(。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
私たちを束縛しているものから自由になるには、
束縛している対象を理解しなくてはなりません。
第一章では、その束縛するものの正体を論じたが、いま一度それを取り上げ、
それから逃れるには如何すべきかを論じているのが、この章である。
「私」を束縛するものとは、
<言葉>と<価値><社会><世界><物語>などがあります。
束縛から逃れるためには「所有」が必要になる。
所有者になることによって、主体者になるのです。
所有することも捨てることもできるのが主体的ということである。
この随想日記を毎日書き続けることは、その範囲で「言葉」を所有している
ことになり、自由に考えを述べていることになり、開放されている。
「の主体者は、の束縛から逃れるためには、
「<言葉>を所有すること」が必要になる。
「言葉による束縛」とは、「自分が使った言葉が、新しい意味を帯びる」
ということを認識しないことによって発生する。
また、「自分が受け取った言葉に自分が新しい意味を付与することによって、
それを認識している」ということに気づかないことによって発生する。
これを換言するならば、
それは「私がある時点で使った単語は、常に新しい意味で用いられている」
と認識し、また「他者から発せられた言葉も同様である」と認識することです。
私たちは、厳密な意味で同じ単語を同じ意味で使うことができません。
言葉による意思疎通が(不完全であれ)可能となるのは、
「了解不可能な他者を了解しようとする意思」によって発生するものでしかなく、
ある言語体系よって適切に語を使用することで発生するものではありません。
私たちは、何らかの概念を伝達しようとする時、
「この単語は、この程度の意味に使われていたはず」と推測し、
それに「近似した」新しい意味を付与しつつ発語している。
そのとき、言葉の主体者は<私>です。
A <価値>の束縛から逃れるためには、<価値>を所有するしかありません。
しかし、ここで注意しなくてはならないのは、の主体者は、ととは言語体系のこと、そしては、それを発生する側が主体者である、
と考えていることによって、それらによる束縛が発生します。
その両方が「誤りである」ということを認識するだけで、
私たちはその束縛から逃れることができるのです。
Bの束縛から逃れるためにはそれを所有しなければなりません。
そのとき<物語>所有する主体者は、いうまでもなくをつくることも捨てることもできます。
その状態が「所有」であり、そのときそれらの束縛から逃れることができるのです。
ーー
ここで、と《私》について、もう一度整理をしてみる。
<私>は、
@ 言葉を用いて対象化された「私の像」
A「超越確実性言明(つまり言葉)」の束、
もしくはそれに支えられている「自己の像」
B「私」の「論理的」な側面(言葉によって認識・構築された「私」)
の意味を持っています。
これに対し、《私》は、
@<私>の中核にあり、の存在を支えているもの
Aの中核部分にあり、
10月05日(金)
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