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堀井On-Line
by horii86
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■2375, コシヒカリが売れない!
私たちの脳裏に発生している思考は、言語によって表現されます。
言語以外の方法で表現された自分の思考を、認識することはできません。
原稿を書いている私は、キーボードの打ちすぎで右手が少ししびれてきたが、
それもしびれてきた」と言葉にしてみるまでは気づかなかったことです。
「眠いかも知れない」と感じたことも、言葉にするまで気づかなかったことです。
脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」であり、それまでは「思っても見なかった」
ことだと言えます。
そういう私は、本当に主体者なのだろうか?
「私」の営みは、純粋な意味ですべて「私」に帰属しているといえるだろうか。
この問題を詳細に検討したのが、ウィトゲンシュタインである。
彼は、「もし主体者が私であるならば、私だけの世界というものを考える
ことができなければならない」と考えました。
極端に言えば、それは、「私の意識の内部の世界のみがそのものであり、
それ以外は考える必要は無い」ということであり、
それを「独我論」と呼びます。
そしてさらに、もしも「私の意識の外部を考える必要がない」のであれば、
「私だけが理解できる言語」というものが存在するはずだと考えを進め、
それを「私的言語」とした。言葉の持っている基本な機能に「命名」があります。
私的言語が可能であれば、当然「私的命名」が可能である。
しかし、「私的命名」とは結局は「自分だけに通じる何らかの名前を想定する」ことです。
彼によると、「独我論の証明」は、ここで暗礁に乗り上げます。
身しらずの子供を見て、勝手に(心の中で)
「今日からこの子は、私にとってタロウ」と考えたとして、それに何の意味も無い。
命名とは、制度であり、「命名の権利を有した人間」のみが行うことが
できる行為である。「制度」とは、「独我論」的な世界には存在し得ない。
何故なら「制度」とは、「他者」の存在があって初めて存立する概念だからです。
「私的言語」が存在しないことは「独我論」が成立しないと言う事と同義です。
人は「言語という制度」に従って行動するウィトゲンシュタインは、
「言語の意味は使用である」と考えた。
それは、「言葉に、もしも意味と呼べるような要素があるとすれば、
それは言語制度に従って言葉を使用するということの中にしかない」ということです。
私たちが「理解した」と感じるのは、「その説明を適正に使用できる」と感じたことが
誰にもあるはず。「言葉の意味とは使用である」というのは、
「言語制度に従って言葉を使用すること」こそが、
言葉に命はそれに反論することになるでしょう。
そのとき私たちは「は反論するのでしょうか。
それは、「超越確実言明」の束を引き受ける「受け皿」、もしくは「基盤」が
だからであり、その基盤のうえに、私たちやは砂上の楼閣のようにもろいものとなってしまう。
この基盤はという意志によって支えられます。
たとえば、「私は、その約束を守る。なぜなら私が約束したからだ」
という場合、その根拠は「単にそれを守る」という<私>の意志にのみ存在します。
<私>は「超越確実言明」という基盤に発生する「機能・現象」ですが、
それが発生した段階で、今度は逆に、「
10月04日(木)
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